落語「仏の遊び」の舞台を行く
   

 

 柳家喜多八の噺、「仏の遊び」(ほとけのあそび)より


 

 修行で前座の内からいやいや習うのが、飲む打つ買うがあります。それぞれ極めるには大変な修行が必要ですが、落語家と違って一番大変な修行は僧侶の世界です。五戒という戒めが有って、それを乗り越える修行があります。

 「貰ったお布施が何処に行ったか分からなくなった。あのお金が無いと、御女郎買いに行けないじゃないか。ナマンダブ、ナマンダブ。木魚がこんな所に落ちてるよ、美しい後家さんのことを考え、お尻を撫ぜる気で木魚を横に寝たんだ。思い出した。盗まれるといけないと思って、褌に包んで本尊の阿弥陀さんの頭に乗せたんだ。これで行けるぞ」。
 「生臭坊主」、「誰か呼びましたか?」、「お前の前の阿弥陀だ」、「え?話が出来るんですか」、「お前のやっていること見ていられないよ。褌を私の頭に乗せて。これから何処に行くんだ」、「法事です」、「ウソつくな。吉原だろッ、俺も一緒に連れて行けッ」、「阿弥陀様がそんなことを」、「良いんだ」、「一辺だけですよ。医者の格好に着替えてきます」。
 「さぁ~、出掛けましょう」、「チョット待て。長い間座っていたからシビれて立てない」、「言っておきますが、私は蓬春(ほうしゅん)では無く、”ほ~さん”ですからね、貴方は阿弥陀さんで”あ~さん”ですよ。貴方は御初回なんですから、遊びの神髄を教えてあげます」。

 「あすこを歩くご婦人はいい女ですね」、「ダメですよ、ここはまだ吉原じゃ無いんです」。

 あ~さんの遊び上手なこと。歌も歌えば踊りも上手く、手相まで見てあげて、女の子達をキャ~キャ~言わせている。後光が差しているようなモテ具合。

 翌朝、「あ~さんですか」、「ほ~ちゃんのお陰で楽しくお通夜が出来ました。やっと悟りが開けました。今度、お釈迦様を連れてこよう。夕べの食べ物旨かった、シラウオの躍り食い、生きたまま下地に泳がせ、そのまま口に入れて食べるの旨かった。また連れてきてね」、「あんたは鬼か蛇かッ。遊びが達者ですね、女の子の手相まで見るんだから」、「吉原は初めてだが、天女とは遊んでいたんだ。天女は器量が良いとお高くとまってるんだ。ここの女の子が寝かせてくれないんだ。目の下にクマができちゃった。ほ~ちゃんが掃除しないときとは違うだろ。昨夜は死んじゃうかと思った、でも私が死んだら何処行くんだろう。今晩も遊んでと言うので居残るから勘定済まして行ってね。寺まで馬引いて帰れないでしょ。若い衆が来て『お祓いを』と言うから頼むよ。言ったんだ、『俺は神主じゃ無いから払えない』と。女の子が呼んでるから・・・、いま行く~」、「何だいあれは・・・。神も仏も無いものだ」。 

 



ことば

五戒(ごかい);在家(ザイケ)の守るべき5種の禁戒(キンカイ)。
・不殺生(フセツシヨウ)= 生き物を故意に殺してはならない
・不偸盗(フチユウトウ)=他人のものを盗んではいけない
・不邪淫(フジヤイン)=不道徳な性行為を行ってはならない
・不妄語(フモウゴ)= 悪口・嘘をついてはいけない
・不飲酒(フオンジユ)= 酒類を飲んではならない

■「鈴振」(すずふり);僧侶の厳しい修行の一つとしてマクラの中でこの噺をしています。落語「鈴振」に詳しいことを書いています。
 ・ すきや【透綾】 (スキアヤの約) 薄地の絹織物。もと、経(タテ)に絹糸、緯(ヨコ)に青苧(アオン=苧麻(チヨマ))の茎の皮から取り出した青い繊維)を織り込んだが、今は生糸ばかりを用い、また、配色の必要から半練糸や練糸をも混用。夏の衣服に用いる。文政(1818~1830)年間、京都西陣の宮本某が越後国十日町で創製。越後透綾。絹上布。(広辞苑)
  志ん生は、夏の着物で、(絽や紗のような)荒い織り方の生地のため、下地が透けて見える織物、と言っている。 旧の5月28日と言えば、今の6月下旬。

布施(ふせ);僧に施し与える金銭または品物。「お布施を包む」。仏事を執行した僧への謝礼としての金品、したがって、檀家から寺へ包むもの、と理解されている。ふつう財施・法施・無畏施を三施という。布施をする人をダーナパティ(dānapati)といい、施主(せしゅ)、檀越(だんおつ、だんえつ、だんのつ)、檀徒(だんと)などと訳される。「ダーナ」は、「与える、施す」が原意であるから、「旦那」は、財産家、主人、夫、パトロンをも意味するようになった。なお、菩提寺にお布施をする家を檀家(だんか)という言葉も、檀那、檀越から来たものである。
三施とは、
 財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。
 法施とは、仏の教えを説くこと。
 無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。

ナマンダブ;阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という声(ことば)の仏さまになって、私たち一人ひとりの今、ここに届いてくださっています。「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀さまが「あなたを守っています。あなたを救います。あなたを忘れない。(本願寺派布教集)

木魚(もくぎょ);(右写真)読経をするときに打ち鳴らすことで、リズムを整える。また、眠気覚ましの意味もあり、木魚が魚を模しているのは、眠るときも目を閉じない魚がかつて眠らないものだと信じられていたことに由来する。 禅宗や天台宗、浄土宗などで用いられる。浄土宗では木魚の使用が禁じられた時期もあったが、その後念仏を唱えるときに使用されるようになり、念仏を邪魔しないために裏打ち(いわゆるバックビート)で木魚を打つ慣わしとなっている。 小さな座布団状の台の上に置かれ、先端を布で巻いたバチで叩くと、「ぽくぽく」という感じの音が鳴る。大きさは直径6cm程度から、1m以上のものまである。自らの尾を食う魚や、2匹の魚や龍が珠を争う姿などを図案化した鈴のような形をしている。表面には魚の鱗が彫刻されている。クスノキなどの木を材料としてつくられる。内部は空洞になっている。開口部である「響孔」にあたる部分から刃を入れ、内部を空洞に作る。

(ふんどし);下帯。男子の陰部をおおい隠す布。たふさぎ。ふどし。こんな不潔なものを阿弥陀さんの頭に乗せるなんて、僧侶としての自覚がなさ過ぎます。

阿弥陀さん(あみださん);〔仏〕西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗などの本尊。阿弥陀仏。阿弥陀如来。略して弥陀。無量寿(仏)。無量光(仏)。
 右図、阿弥陀(広辞苑)

生臭坊主(なまぐさぼうず);肉食をする僧。戒律を守らない僧。不品行な僧。

法事(ほうじ);死者の追善供養のため、四十九日まで7日ごとに行う仏事や、年忌に営む仏事。栄華物語月宴「御―も六月十余日にせさせ給ふ」。「亡父の法事で国に帰る」。

吉原(よしわら);江戸幕府によって公認された遊廓。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
 江戸末期の新吉原の見取り図を見ると、右のくねった道は日本堤から下る「衣紋坂」とそれに続く「五十間」で、遊廓への唯一の公式通路。「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた、隔絶された楽園であった。廓内は、通りごとにいくつかのエリアに分かれていた。道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる。
 右図、江戸切り絵図より吉原。

御初回(ごしょかい);吉原の見世で遊ぶとき、一会目を”初会(回)”(しょかい)と言い、この時は挨拶だけで花魁はツーと帰ってしまう。
    『初会には壁へ吸い付く程座り』 (古川柳)。
  <お客は緊張して部屋の壁際に小さくなって、花魁の来室を待っていた。>
二会目を”裏を返す”といって、最初の時と同じように挨拶とお話だけで、やはり帰ってしまう。
    『裏の夜は四五寸近く来て座る』
  <裏を返さないのは客の恥>
  <馴染みを付けさせないのは花魁の腕が悪いから>
三会目”馴染み”になって、花魁がOKすれば初めて床に入れた。
    『三会目箸一膳の主になり』    (古川柳)。
    『帯ひもをといて付き合う三会目』 (古川柳)。
これ以後は馴染み客になって、真夫(まぶ)気取りになって通いずめることになる。
  床入りが有ろうが無かろうが、毎回同じ揚げ代が掛かった。ただし大見世の場合で、中見世や小見世になると、こんなややっこしいシステムは無かった。

医者の格好(いしゃのかっこう);僧侶が吉原に出掛けるのは、幕府からキツく止められていた。万が一露見したら日本橋袂の晒し場に晒され、本山に帰されそこで処分を受けた。吉原通いは破壊行為に違いは無いが、そこは生身の悲しさ、煩悩の念押さえがたく、人目を忍んでの遊びとなった。同じ坊主頭の医者に変装して、医者特有の長袴を着て、脇差しをさして出掛けるのだった。
  『抹香(まっこう)と薬を女郎嗅ぎ分ける』 (柳多留)
遊女にはすぐばれてしまったが・・・。

後光(ごこう);仏・菩薩の体から放射するという光輝。また、それを表すために仏像のうしろに添えた金色の輪。「後光が差す」。
 光背(こうはい)といって、仏像の背後につける光明を表す装飾。後光をかたどったもの。頭後にある円形または宝珠形のものを頭光(ズコウ)、身後にある楕円形のものを身光、頭光と身光とを合せたものを挙身(キョシン)光という。
 神様や仏様だけでなく、素晴らしい人物・俳優・芸能人や、スターと呼ばれる立派な人物と接していると、オーラのようなものを感じる事があります。そんなときも、「後光」という言葉を用いることができます。
 右写真:舟形光背 阿弥陀如来立像 (ベルン歴史博物館蔵)

通夜(つや);神社・仏閣に参籠して終夜祈願すること。おこもり。平家物語3「清盛厳島へ参り通夜せられたりける夢に」。
 死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。おつや。夜伽(ヨトギ)。

お釈迦様(おしゃかさま);釈迦牟尼(しゃか‐むに)、(梵語 kyamuni 「牟尼」は聖者の意)、 仏教の開祖。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城の浄飯王(ジヨウボンノウ)の子。母はマーヤー(摩耶マヤ)。姓はゴータマ(瞿曇クドン)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行、35歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、80歳でクシナガラに入滅。その生没年代は、前566~486年、前463~383年など諸説がある。シャーキヤ‐ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。

馬引いて(うまひいて);付き馬。噺のマクラでどの師匠連も”馬”の説明をするが、それによると、雷門近くの松並木で馬子さんが客待ちしていた。その馬に乗って客は吉原に通った。その道を”馬道”と言い今でも”馬道通り”と呼ばれているが、この道の名前は吉原が出来る前から有ったので、噺家の説には直ぐには信じられない。
 又帰りの客を大門前で待っていた。遊びすぎて勘定の足りなくなった客を見世側はその馬子さんに頼んで勘定の取り立てを依頼した。馬に乗せて帰り、その家の前に馬を繋いで集金できるまで待っていた。回り近所ではその様子から「”馬”を連れて帰ってきた」と、勘定が足りないことが一目瞭然に判ってしまった。その後、馬子さんでは不都合があるので、自分の見世の者が付いて行き取り立てた。と志ん朝も談志も小三治も他の落語家も言っているが、落語だから”まゆつば”と思っていたら、本当らしい。
 不足または不払いの遊興費などを受け取るために遊客に付いてゆく人。つけうま。うま。東海道中膝栗毛3「馬をつれてかへりさへすりやア、いくらでも貸してよこしやす」(広辞苑)と言うように”馬”と言った。広辞苑も以外と柔らかい言葉もしっかりと解説しているのには驚きです。

若い衆(わかいし);ぎゅう(妓夫、牛太郎=若い衆)。客引き。遊郭の若い衆(使用人)。小見世では客引きなどをする見世番。歳を取っていても”若い衆”と言う。江戸訛りでは、衆は”し”と読み、”しゅう”とは読まない。

お払い(おはらい);吉原の言い方で、お支払い。勘定。
 お祓い(おはらい);災厄を除くために、神社などで行う神事。また、そのお札。 お祓いとお払いを混同するのは仕方が無いことで、オチに使われています。



                                                            2021年4月記

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