落語「鶯宿梅」の舞台を行く 四代目橘家圓蔵の噺、「鶯宿梅」(おうしゅくばい)、別名「春雨茶屋」より
仲人、「どうしたんだ。店のこともかまわないで遊びにうつつを抜かすとは。こんなことじゃ、大旦那に申しわけが立たないじゃないか」、 「なんだ、こんな歌もわからんのか。おまえ、芸者遊びばかりしていないで、和歌の道でも学んだらどうだ。歌の意味は”帝のご命令でございすので、この梅の木は謹んで贈呈いたします。しかしながら、毎年、この梅の枝に宿る鶯が、『我が宿はどうしたのか』と問うたならば、どう答えたらよいのでしょうか”というものだ」、「なるほど鶯宿梅ですか、養子臭いじゃないんですね」。
少しは気が晴れたようだが、鶯宿梅のいわれを言いたくて、また、柳橋に行ってその時の芸者を呼んで、芸者にえらそうに鶯宿梅の故事の由来を話したが、なにせ付け焼刃で、支離滅裂になっていしまった。
■大鏡(おおかがみ)は平安時代後期に書かれた歴史物語で、作者はわかっていません。
大鏡「鶯宿梅」の原文
大鏡「鶯宿梅」の現代語訳
■大鏡による、その後の梅の木は、
上、林光院の現在の鶯宿梅。
林光院のその後の二度にわたる移転の度毎に「鶯宿梅」も又移植されねばならぬ運命を担い、霜雪一千有余年、その幹は幾回か枯死したが、歴代の住職の努力によって、接ぎ木から接ぎ木へと、現代に至るまで名木の面目を維持して来た。
花は三十六枚もの花弁を有し、一名、「軒の紅梅」と称せられる如く、つぼみの間は真紅で開花と共に淡紅に変じ、最後に純白に移っていく所謂、仙品である。
■村上天皇(むらかみてんのう);
(926年~967年)長く関白の地位に就いた藤原忠平が亡くなると、村上天皇は摂政や関白を置くことなく再び天皇が政治を主導すべく、天皇親政を整えようと試みます。
平将門の乱・藤原純友の乱で圧迫された財政を再建するため、倹約例を発令し、歳出の削減や徴税の徹底を行いました。
さらに人事考課を厳格化させるなど、多くの功績を残しました。
このことから、村上天皇時代は「天暦の治」と呼ばれ、醍醐天皇時代の「延喜の治」と併せて、天皇親政の手本とまで称されました。
けれども、実際は左右大臣・藤原実頼と藤原師輔兄弟が実権を握っていたとも言われています。右図、村上天皇。
■紀貫之(きのつらゆき);( 貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃?
ー 天慶8年5月18日(945年6月30日)?) 平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。
■梅に鶯(うめにうぐいす);梅に鶯とは、取り合わせのよい二つのもの、よく似合って調和する二つのもののたとえ。仲のよい間柄のたとえ。
写真:梅(紅梅)にウグイス(出典:武蔵野の野鳥) メジロはよく梅の花の蜜を吸いに来ますが、鶯は臆病で下笹の中を歩くので、梅の木にとまったショットは貴重です。
「牡丹に唐獅子」、「竹に虎」、「紅葉に鹿」、「松に鶴」、「柳に燕」などの組み合わせがある。
これらは自然界において実際によく観察される組み合わせではなく、あくまでも詩歌や絵画における良い組み合わせの例え。現実の風景でこれらを目にすることはあまりない。特に私は梅の木にとまる鶯は見たことが有りません。
■養子(ようし);近世 江戸時代の養子縁組はもっぱら〈家〉相続を目的として取り結ばれ、とくに主君の許可を要する武家の場合には、種々の制約が加えられた。幕法では養子は近親者を原則とし、1663年(寛文3)の〈諸士法度〉でその選定順位を、第1に同姓の弟、甥、従弟、又甥、又従弟、第2に入聟(いりむこ)、娘方の孫、姉妹の子、種替りの弟と定めた。これらの親類に適当な人がいない場合に他人養子を認めたが、その範囲は原則として直参(じきさん)の次・三男に限られた。養親の年齢は17歳以上、養子は養親より年少の者でなければならなかった。
婿養子は婚姻と養子縁組という2つの要素をあわせ持つものである。明治民法では婿養子は制度化されていたが第二次世界大戦後の民法改正で婿養子の規定は削除されている。
■離縁(りえん);この噺では、上記養子縁組の「婿養子の婚姻と養子縁組」の2つの結びつきを解除すること。そして、自分で仕事を興してやりたいと言っています。
■柳橋(やなぎばし);
上写真、昭和36年当時の柳橋周辺。船宿小松屋蔵。左側が柳橋(町)、手前が神田川で柳橋下流で隅田川と合流する。現在と同じ所に船宿が有り、船は和船の手こぎ船です。ここから吉原や深川に遊びに出た船宿の基点です。柳橋の左向こうには料亭『亀清楼』が日本家屋のたたずまいを見せています。左上の隅田川に架かる鉄橋はJR総武線の鉄道橋です。写真をよく見ると柳橋を渡り始めている白い車は有名なダイハツミゼット軽三輪。
花柳界の柳橋は子規の句で、
■春雨を踊って(はるさめを おどって);”♪身まま気ままになるならば、鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな”と歌に乗せて舞う踊り。
■芸者(げいしゃ);まずは芸者と花魁の違いを。花魁は艶を売る商売ですから、服装も髪型も化粧も派手やかで男を引きつけます。芸者は原則、艶のお相手はしません。芸を売るのが商売ですから、花魁から比べると一段引き下がって外見は地味造りです。その芸も唄、楽器、踊り、酔客に楽しく遊ばせるのも芸の内です。色気を売るのも女である芸者の武器ですが、幇間と言われる男芸者は色気で勝負は出来ませんので、芸を磨くだけしか有りませんので、”ヨイショ”だけでは勤まりません。
■清涼殿(せいりょうでん);平安時代初期、京都市上京区に天皇の日常生活の居所として仁寿殿や常寧殿が使用されていたが、中期にはこの清涼殿がもっぱら天皇の御殿とされ、紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務の他、四方拝・叙位・除目などの行事も行われた。ただしこの清涼殿も次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降は清涼殿に替わって常御所が日常の居所となった。
内裏は鎌倉時代に火災にあってからは再建されることがなかったが、清涼殿は臨時の皇居である里内裏において清涼殿代として再建され、現在の京都御所(これも元は里内裏である)にも安政2年(1855年)に古式に則って再建されたものが伝わっている。
■帝(みかど);天皇(てんのう、英: emperor)は、日本国憲法において日本国および日本国民統合の象徴と規定される地位、またはその地位にある個人。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。
2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。
■勅(ちょく);天子の命令。天子のことば。みことのり。「―を奉ずる」、「詔勅・勅使・勅撰」。
■鴬(ウグイス);「ホーホケキョ」と大きな声でさえずる。日本三鳴鳥の1つ。日本ではほぼ全国に分布する留鳥。ただし寒冷地の個体は冬季に暖地へ移動する。平地から高山帯のハイマツ帯に至るまで生息するように、環境適応能力は広い。笹の多い林下や藪を好むが、さえずりの最中に開けた場所に姿を現すこともある。英名の「Bush Warbler」は藪でさえずる鳥を意味している。警戒心が強く、声が聞こえても姿が見えないことが多い。
■付け焼刃(つけやきば);刀に関する言葉です。 もともとは、切れ味の悪い刀に鋼の焼き刃を付け足したもの、つまり一見切れそうに見えるものの実際には切れない刀のことを言いました。 そこから転じて、一時の間に合わせ、またはその場をしのぐために、にわかに覚えた知識や技術のことを指すようになりました。
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