落語「鶯宿梅」の舞台を行く
   

 

  四代目橘家圓蔵の噺、「鶯宿梅」(おうしゅくばい)、別名「春雨茶屋」より


 
 ある大家に養子になって来た若旦那。この頃、道楽が過ぎるので大旦那が仲人を呼んで意見してもらう。

 仲人、「どうしたんだ。店のこともかまわないで遊びにうつつを抜かすとは。こんなことじゃ、大旦那に申しわけが立たないじゃないか」、
 若旦那、「もう、養子の暮らしはいやになりました。どうか、離縁してください」、
 「一体、なにがあったんだ」、「この間、柳橋で春雨を踊っていたら、芸者が唄の文句で、”身まま気ままになられない、養子臭いじゃないかいな”と言ったのを聞いてから、養子はつくづくいやになりました」、「そうじゃない。”身まま気ままになるならば、鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな”というのだ。普段から養子であることに引け目を感じているから、養子臭いなんてふうに聞こえてしまうのだよ」、「鶯宿梅ってなんですか?」、「昔、都の清涼殿にあった帝が毎年、楽しみにして愛でていた梅の木が枯れてしまった。帝はたいそうがっかりしているので、これに似た梅の木を探したところ、山城西の京にあったので、その木を持って来た。ところが、それには短冊がついていて、”勅なればいとも賢し鶯の宿はと問はばいかに答えん”という紀貫之の娘の歌が書かれていた。それからこの梅の木を鶯宿梅というようになったんだ。それで、元の山城西ノ京に返したら、その晩鶯がこの木に留まったという」、「へ~ぇ」、「それからその鶯宿梅の由緒を春雨という歌にこしらえたのだ」、「そうですか、歌の意味はどういうものですか?」。

 「なんだ、こんな歌もわからんのか。おまえ、芸者遊びばかりしていないで、和歌の道でも学んだらどうだ。歌の意味は”帝のご命令でございすので、この梅の木は謹んで贈呈いたします。しかしながら、毎年、この梅の枝に宿る鶯が、『我が宿はどうしたのか』と問うたならば、どう答えたらよいのでしょうか”というものだ」、「なるほど鶯宿梅ですか、養子臭いじゃないんですね」。

 少しは気が晴れたようだが、鶯宿梅のいわれを言いたくて、また、柳橋に行ってその時の芸者を呼んで、芸者にえらそうに鶯宿梅の故事の由来を話したが、なにせ付け焼刃で、支離滅裂になっていしまった。
 「若旦那、なんだかちっとも分かりませんよ。きっと受け売りでしょう」、
 「ああ、これは、大しくじり倍(鶯宿梅?)だ」。

  

「落語事典」 東大落語会編より。元来はこの噺は上方落語で、若かりし三代目桂春団治や若き桂米朝に、若き噺家が「春雨茶屋」の題名で稽古を付けて貰った。江戸に直して茶屋は柳橋となっています。それを江戸では品川の圓蔵こと 四代目橘家圓蔵(八代目桂文楽の師匠)が高座に上げていた。口上筆記から概略を取りました。



ことば

大鏡(おおかがみ)は平安時代後期に書かれた歴史物語で、作者はわかっていません。
 『大鏡』はいわゆる「四鏡」の最初の作品であり、内容的には2番目に古い時代を扱っている。非凡な歴史観がうかがえる問答体の書で、三巻本・六巻本・八巻本がある。
 書名の『大鏡』とは、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」の意味である。古くは世継物語(よつぎものがたり)・世継の翁が物語(よつぎのおみながものがたり)・世継のかがみの巻(よつぎのかがみのまき)・摩訶大円鏡(まかだいえんきょう)などとも呼ばれており、作者の付けた書名は無かったものと考えられている。
 作者は不詳だが、摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人説が有力で、近年では村上源氏の源顕房とする説がやや有力とみなされている。
 文徳天皇が即位した嘉祥3年(850年)から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至るまで14代176年間の宮廷の歴史を、藤原北家、ことに道長の栄華を軸にして、大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれている。
 大和言葉に漢語・仏教用語を交えて書かれており、簡潔でありながら豊かな表現に富む。藤原兼通・兼家兄弟の権力争いや、藤原道兼が花山天皇を欺いて出家させる場面では、権力者の個性的な人物像が描写されている。そこには権力欲への皮肉も垣間見える。

 大鏡「鶯宿梅」の原文
 「いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦の御時に、清涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給ひしに、某主の蔵人にていますがりし時、承りて、
『若き者どもはえ見知らじ。きむじ求めよ。』 とのたまひしかば、一京まかり歩きしかども、侍らざりしに、西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木の、様体うつくしきが侍りしを、掘り取りしかば、家あるじの、
『木にこれ結ひ付けて持て参れ。』 と言はせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、
『なにぞ。』 とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける、
 <勅なればいともかしこし 鶯の宿はと問はばいかが答へむ>とありけるに、あやしく思し召して、
『何者の家ぞ。』 と尋ねさせ給ひければ、貫之の主の御女の住む所なりけり。
『遺恨のわざをもしたりけるかな。』 とて、あまえおはしましける。 繁樹、今生の辱号は、これや侍りけむ。
 さるは、 『思ふやうなる木持て参りたり。』 とて、衣かづけられたりしも、辛くなりにき。」とて、こまやかに笑う。

 大鏡「鶯宿梅」の現代語訳
 「たいそう興味がひかれ感慨深くございましたのは、この村上天皇の御代に、清涼殿の御前の(庭の)梅の木が枯れてしまったので、(代わりを)お探しになりましたところ、誰それ殿が蔵人でいらっしゃった時、(仰せを)お受けして、
 (その人が私に)、『若い人たちは(どんな木がよいか)見てそれとわからないだろう。おまえが探してこい。』 とおっしゃったので、都中歩き回りましたけれども、ございませんでしたが、西の京のどこそこにある家に、色濃く咲いた木で、姿の立派なのがございましたので、掘り取ったところ、
 (その)家の主人が、『木にこれを結びつけて持って参上しなさい。』 と(使いに)言わせなさったので、何かわけがあるのだろうと思って、(内裏に)持参してお控え申しあげましたのを、
 『何か。』 と言って(帝が)ご覧になったところ、女の筆跡で書いてございました(歌には)、
 <勅命ですから畏れ多いことです。(この木は差しあげます。しかし)鶯が、自分の宿は(どうなった)と問うたなら、どう答えましょうか。>とあったので、不思議にお思いになり、
 『何者の家か。』 と(命じて)お調べになったところ、貫之殿の娘(=紀内侍)の住む所であった。
(帝は) 『残念なしわざをしたものだなあ。』 と、きまり悪がっていらっしゃいましたよ。 繁樹の、一生涯中の恥辱はこれでございましたでしょうか。
 とは言っても、 『思いどおりの木を持参した。』 と言って、(ご褒美の)衣を頂戴したのも、(かえって)つらくなってしまいました。」と言って、にこやかに笑った。

大鏡による、その後の梅の木は、
 『大鏡』では、梅を返したという記述は見当たらないが、後世『大鏡』の系統の作品が多く見られるが、その中には梅を返したと記すものがあるという。掘り起こして運んできたとすれば、和歌の趣旨からして返すことが前提になるであろう。『大鏡』が記していないのは記さなくてもそのことは当然のことと考えていたのではないだろうか。
 
 ところで、何故今も林光院に鶯宿梅の梅が残されているのであろうか。
 足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(よしつぐ)が、応永25年(1418年)1月、25歳で早世された。その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として、京都二条西ノ京にある紀貫之の屋敷の旧地に林光院が開創される。それ以後、林光院境内の樹木として、この「鶯宿梅」は寺と消長を共にすることになったという。

  

 上、林光院の現在の鶯宿梅。

 林光院のその後の二度にわたる移転の度毎に「鶯宿梅」も又移植されねばならぬ運命を担い、霜雪一千有余年、その幹は幾回か枯死したが、歴代の住職の努力によって、接ぎ木から接ぎ木へと、現代に至るまで名木の面目を維持して来た。 花は三十六枚もの花弁を有し、一名、「軒の紅梅」と称せられる如く、つぼみの間は真紅で開花と共に淡紅に変じ、最後に純白に移っていく所謂、仙品である。

村上天皇(むらかみてんのう); (926年~967年)長く関白の地位に就いた藤原忠平が亡くなると、村上天皇は摂政や関白を置くことなく再び天皇が政治を主導すべく、天皇親政を整えようと試みます。 平将門の乱・藤原純友の乱で圧迫された財政を再建するため、倹約例を発令し、歳出の削減や徴税の徹底を行いました。 さらに人事考課を厳格化させるなど、多くの功績を残しました。 このことから、村上天皇時代は「天暦の治」と呼ばれ、醍醐天皇時代の「延喜の治」と併せて、天皇親政の手本とまで称されました。 けれども、実際は左右大臣・藤原実頼と藤原師輔兄弟が実権を握っていたとも言われています。右図、村上天皇。
 自身も歌人として活躍し、『清涼記』の著者だとも伝えられています。 さらに琵琶や琴の腕も確かだったことから、平安文化を築き上げました。 特に村上天皇で有名なのが、『大鏡』(道長下)の「鶯宿梅(おうしゅくばい)」です。

紀貫之(きのつらゆき);( 貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃? ー 天慶8年5月18日(945年6月30日)?) 平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。
 日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。 散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。
 貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。
 実の娘に、鶯宿梅の短冊の作者、紀内侍がいます。名人の子は名人です。

梅に鶯(うめにうぐいす);梅に鶯とは、取り合わせのよい二つのもの、よく似合って調和する二つのもののたとえ。仲のよい間柄のたとえ。

  梅(紅梅)にウグイス

 写真:梅(紅梅)にウグイス(出典:武蔵野の野鳥) メジロはよく梅の花の蜜を吸いに来ますが、鶯は臆病で下笹の中を歩くので、梅の木にとまったショットは貴重です。

 「牡丹に唐獅子」、「竹に虎」、「紅葉に鹿」、「松に鶴」、「柳に燕」などの組み合わせがある。 これらは自然界において実際によく観察される組み合わせではなく、あくまでも詩歌や絵画における良い組み合わせの例え。現実の風景でこれらを目にすることはあまりない。特に私は梅の木にとまる鶯は見たことが有りません。

養子(ようし);近世 江戸時代の養子縁組はもっぱら〈家〉相続を目的として取り結ばれ、とくに主君の許可を要する武家の場合には、種々の制約が加えられた。幕法では養子は近親者を原則とし、1663年(寛文3)の〈諸士法度〉でその選定順位を、第1に同姓の弟、甥、従弟、又甥、又従弟、第2に入聟(いりむこ)、娘方の孫、姉妹の子、種替りの弟と定めた。これらの親類に適当な人がいない場合に他人養子を認めたが、その範囲は原則として直参(じきさん)の次・三男に限られた。養親の年齢は17歳以上、養子は養親より年少の者でなければならなかった。
 また家の断絶を防止するため、順養子といって弟や養方弟(養父の実子など)を養子とすることや、死期近く願い出る末期養子(まつごようし)、大名・幕臣が参勤交代や公用で江戸を離れる際、万一を考えて願い出ておく仮養子(かりようし)の制度も行われた。諸藩でも家中の養子は細かく規定されていた。
 百姓・町人の場合は当事者間の契約によって結ばれ、武家に比べはるかに自由であった。なお一般に、養子入りにあたって持参金がやりとりされ、なかには持参金目当ての養子縁組もみられた。幕府は再三にわたってこれを禁止する法令を発したが、あまり効果はなかった。

 婿養子は婚姻と養子縁組という2つの要素をあわせ持つものである。明治民法では婿養子は制度化されていたが第二次世界大戦後の民法改正で婿養子の規定は削除されている。
 噺の婿さんは、「小糠三合持つと婿養子に行くな、と言うぐらいですから、養子に行くもんじゃ無い」と、言っています。

離縁(りえん);この噺では、上記養子縁組の「婿養子の婚姻と養子縁組」の2つの結びつきを解除すること。そして、自分で仕事を興してやりたいと言っています。

柳橋(やなぎばし);
  

 上写真、昭和36年当時の柳橋周辺。船宿小松屋蔵。左側が柳橋(町)、手前が神田川で柳橋下流で隅田川と合流する。現在と同じ所に船宿が有り、船は和船の手こぎ船です。ここから吉原や深川に遊びに出た船宿の基点です。柳橋の左向こうには料亭『亀清楼』が日本家屋のたたずまいを見せています。左上の隅田川に架かる鉄橋はJR総武線の鉄道橋です。写真をよく見ると柳橋を渡り始めている白い車は有名なダイハツミゼット軽三輪。 

 花柳界の柳橋は子規の句で、
  「春の夜や女見返る柳橋」
  「贅沢な人の涼みや柳橋」

 と唄われるように、隅田川に面していて両国橋西詰めから神田川が合流する、その際に架かった柳橋を渡ると、その北側には柳橋と言う町があって、その柳橋花柳界で金持ちは遊んだ。江戸っ子というと職人さん達や小商人さん達ですが、大店の旦那衆は金銭感覚が違っていて、ここは職人達がおいそれと遊べる所では無かった。  江戸が明治に変わり、新政府に仕える元武士達が東京に大勢入ってきた。その時江戸っ子はその者達を粋さが無いと馬鹿にして軽蔑した。吉原でも同じようにその者達を軽蔑して楽しく遊ばせなかったので、彼らは柳橋や赤坂で遊ぶようになった。ために、柳橋は多いに賑わった。
  また、両国の花火では多いに賑わい、そのスポンサーとしての地位を築いていたが、隅田川の護岸が高くなり川面が見えなくなってしまった。それに輪を掛けて、高度経済成長期であったので、隅田川の水が墨汁のように真っ黒く染まり、悪臭を放って遊びどころでは無くなった。その為、客が激減して営業が成り立たなくなり花火も中止になり、街はマンションや事務所ビルに変わっていった。しかし、現在でも幾つかの料亭は続いています。私の調べでは、和風造りの「傳丸」(2019年廃業)、ビルの1階で「亀清楼」の2軒が営業していますし、夜になれば料理屋さんとして店を開くであろう和風の昔ながらの店もあります。
  しかし、芸者の元締め、見番が無くなって久しい。と言うことは、残念ながらこの柳橋には芸者が現在絶滅して一人も居ません。

春雨を踊って(はるさめを おどって);”♪身まま気ままになるならば、鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな”と歌に乗せて舞う踊り。

芸者(げいしゃ);まずは芸者と花魁の違いを。花魁は艶を売る商売ですから、服装も髪型も化粧も派手やかで男を引きつけます。芸者は原則、艶のお相手はしません。芸を売るのが商売ですから、花魁から比べると一段引き下がって外見は地味造りです。その芸も唄、楽器、踊り、酔客に楽しく遊ばせるのも芸の内です。色気を売るのも女である芸者の武器ですが、幇間と言われる男芸者は色気で勝負は出来ませんので、芸を磨くだけしか有りませんので、”ヨイショ”だけでは勤まりません。
 吉原や岡場所(四宿)では花魁や女郎が居ますので、芸だけ売る芸者のレベルが高いのが分かります。しかしそれがゴッチャになっている所では、芸者が色目を使う様になるのも致し方が無い事でしょう。夜ごと男を変えることはありませんが、夫婦であったり、夫婦と同じ固定の相方が居ることもあります。そんなお姐さんに声を掛けても鼻も引っかけてもらえません。それを振り向けさせるのは若さでもイケ面でもなく”お金”だけです。
 上図;「二人の芸者と仲居」天明の頃 無款(北尾重政画といわれる)ホノルル美術館蔵。 これからお仕事に出掛けるところです。仲居が持っているのが三味線の入った箱です。

清涼殿(せいりょうでん);平安時代初期、京都市上京区に天皇の日常生活の居所として仁寿殿や常寧殿が使用されていたが、中期にはこの清涼殿がもっぱら天皇の御殿とされ、紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務の他、四方拝・叙位・除目などの行事も行われた。ただしこの清涼殿も次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降は清涼殿に替わって常御所が日常の居所となった。 内裏は鎌倉時代に火災にあってからは再建されることがなかったが、清涼殿は臨時の皇居である里内裏において清涼殿代として再建され、現在の京都御所(これも元は里内裏である)にも安政2年(1855年)に古式に則って再建されたものが伝わっている。

清涼殿 1

(みかど);天皇(てんのう、英: emperor)は、日本国憲法において日本国および日本国民統合の象徴と規定される地位、またはその地位にある個人。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。

(ちょく);天子の命令。天子のことば。みことのり。「―を奉ずる」、「詔勅・勅使・勅撰」。

(ウグイス);「ホーホケキョ」と大きな声でさえずる。日本三鳴鳥の1つ。日本ではほぼ全国に分布する留鳥。ただし寒冷地の個体は冬季に暖地へ移動する。平地から高山帯のハイマツ帯に至るまで生息するように、環境適応能力は広い。笹の多い林下や藪を好むが、さえずりの最中に開けた場所に姿を現すこともある。英名の「Bush Warbler」は藪でさえずる鳥を意味している。警戒心が強く、声が聞こえても姿が見えないことが多い。
 食性は雑食だが、夏場は主に小型の昆虫、幼虫、クモ類などを捕食し、冬場は植物の種子や木の実なども食べる。繁殖期は初夏で、オスは縄張りをつくり「ホーホケキョ」と1日に1000回ほど鳴くことがある。横穴式の壺形の巣をつくり、4~6個の卵を産み、メスが雛を育てる。亜種のハシナガウグイスは、2~3個の卵を産み、オスも雛への給餌を行う。ホトトギスの卵は鶯に似て、色はほぼ同じで、ホトトギスの托卵対象となる。
 上記、「梅に鶯」に、鶯の写真あり。

付け焼刃(つけやきば);刀に関する言葉です。 もともとは、切れ味の悪い刀に鋼の焼き刃を付け足したもの、つまり一見切れそうに見えるものの実際には切れない刀のことを言いました。 そこから転じて、一時の間に合わせ、またはその場をしのぐために、にわかに覚えた知識や技術のことを指すようになりました。
 通常、何度も刀鍛冶が地金を打って作った刀は切れ味が良く、長持ちします。一方で、鋼を足しただけの付け焼刃は、すぐに切れ味が悪くなり、使い物にならなくなります。このことから、一時の間に合わせ、またはその場をしのぐために、にわかに覚えた知識や技術のことを指す「付け焼刃」という言葉ができました。



                                                            2021年6月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system