落語「樊噲」の舞台を行く
   

 

 柳家小満んの噺、「樊噲」(はんかい)、別名を『支那の野ざらし』より


 

 野ざらしの舞台を唐に移した噺。文禄山と揚国忠という独身者が、長屋に隣り合わせに住んでいた。

 文禄山が釣りの帰りに人骨に酒を掛け回向をすると、その骨は楊貴妃で夜礼に来て、一晩夜伽をしてくれた。これをうらやましく思った揚国忠が翌日人骨を捜して回向をし、夜どんな女が来るかと待っていたら、甲冑を身にまとった大男が来たのでビックリ。漢の高祖の家臣で樊噲という豪傑で何か礼がしたいという。揚国忠は、出入りのお店の若旦那が青楼に入り浸って一週間も帰らないので連れ戻して欲しいと頼む。樊噲はお安い御用と引き受けた。揚国忠が、「青楼も最近の自由廃業問題で煽動者の言葉に敏感になっているから、大門あたりで一悶着有るかも知れない」と注意すると樊噲は大門なんか打ち破ってしまうと意気込んだ。「それじゃ、鴻門の会じゃなくて大門の害だ」。

 

 以上が原話の要約ですが小満んは、もうひとひねりして、

 中国のお箪笥長屋の引出し横丁に二人が住んでいた。通常の『野ざらし』でたとえると、文禄山=尾形清十郎が聘珍樓(へいちんろう)、揚国忠=八五郎が崎陽軒(きようけん)。この名前からして、地元横浜にちなんだ名づけで、すでにシャレなのです。

 釣り好きの聘珍樓が、太公望で有名な渭水(いすい)で釣りをしたが坊主で、帰ろうとして馬嵬(ばかい)の浜で骸骨を見つけ、ふくべの紹興酒をかけて回向した。夜になって楊貴妃が聘珍樓を訪ねてきた、楊貴妃が聘珍樓の肩を叩く「トントコ トントコ トントントン」と。隣の崎陽軒が壁に穴をあけて覗き見し、覗き込んでいる。

翌朝、一番鳥の東天紅が刻を告げると、「早朝もまな板も中華鍋もないよ」と聘珍樓。

 崎陽軒が「夕べの女はなんだ?」と尋ねる。我もと思う崎陽軒が馬嵬の浜へ。
 大きな骸骨を見つけて、ふくべから茅台酒(マオタイシュ)をかけ弔った。さて、夜、ピータンとザーサイで一杯やりながら待っていた崎陽軒を訪れたのは、なんと七尺あまりの大男、樊噲。
  さすがに小満ん、中国の原話や、上方の『骨つり』などの下品なサゲではなく、「我れ骸骨を乞う」の言葉を使ってサゲた。

 通常のサゲは、『十八史略』中の「鴻門(こうもん)の会」で名高い英雄・樊噲(はんかい)が現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまたすごいオチです。

 



ことば

■今日一般的に演じられる『野ざらし』は、原話を元に禅僧出身の二代目林家正蔵が改作したものを、『鼻の円遊』と言われた初代三遊亭円遊が爆笑噺としたもの。この噺の原話は中国・明代の笑話本『笑府』にあって、最初の骨が楊貴妃(ようきひ)。しかし、二つ目の骨が原話で張飛(ちょうひ)なのだが、この噺では樊噲になる。原話のサゲは、やや下品な地口。上方の『骨つり』では、石川五右衛門が登場して原話に近いサゲが残っている。
  小満んは、項羽(こうう)と劉邦が争っていた時代、劉邦の部下だった樊噲が鴻門の会で主人劉邦を救った逸話を紹介。

 項羽(こうう)、代々楚の武将であった家系の出身。祖父は秦の李信率いる二十万の大軍を破り、最後の楚王・昌平君と共に楚の滅亡まで戦い散った項燕将軍。

 劉邦(りゅう ほう)、前漢の初代皇帝。沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖(たいそ)、諡号が高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。

 鴻門の会(こうもんのかい)、紀元前206年、敵対する楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外(現在の陝西省西安市臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後の破滅を招く事となった。

樊噲(はんかい);初の武将で高祖劉邦に仕えて戦功を立て、鴻門の会では劉邦の危急を救い、劉邦が漢王に成るに及び舞陽侯に封ぜられた。 劉邦が項羽との会談を敵地の鴻門の会で行った時、樊噲は表に待たされていたが危機を察して中へ乗り込んで行った。
 ○『鴻門の会食い逃げを高祖する』  樊噲が大酒を飲んで項羽の度肝を抜いている間に、劉邦は厠へ立ちそのまま鴻門を脱した。
 ○『鴻門が来ぬと鞘へは納まらず』
 ○『鴻門の帰り樊噲くだを巻き』  安宅の関の弁慶さながらの働きをした樊噲は、帰路でさぞ劉邦に管を捲いた事だろう。

聘珍樓(へいちんろう);創業百三十余年。 日本に現存する最古の中国料理店として、横浜中華街に本店を置く中国料理店。株式非公開会社。 聘珍樓の「のれん」は、張家二代、鮑家二代、龐柱琛、林康弘と続き現代表取締役の林衛で七代目。
 「儒者は宴席の佳肴の如きで、良き人品と道徳を備えて招聘登用されるのを待つものだ」という意味。そこから「席珍待聘」と言う四字熟語が生まれ、「才能ある者が登用され招聘任命されるのを待つ」という意味に使われるようになった。「席珍」とは宴席に供される佳肴をさし、転じて「才能のある者」を言う。「待聘」とは「登用されるのを待つ」の意となる。「席珍待聘」の四字成語から、聘珍樓の屋号はこの書物の一節にちなむ命名であった。この一節でも佳肴を意味する「珍」を「才能ある者」の「珍」としてたとえてある様に、「聘珍樓」も「良き人、素晴らしき人が集り来る館」と解して佳肴と人を総じて語ってある。
 各地に支店を持っています。日比谷聘珍樓(1980年3月開店)、吉祥寺聘珍樓新館(1988年11月開店、現在の名称は吉祥寺聘珍樓)、溜池山王聘珍樓(2000年5月開店)、小倉聘珍樓ANNEX(2000年7月開店)、大阪聘珍樓(2006年11月開店)。他に、香港にもあります。
 周 富徳(しゅう とみとく、1943年3月11日 - 2014年4月8日)は、広東料理の料理人・実業家。神奈川県横浜市中区山下町の横浜中華街出身。愛称は「炎の料理人」。 聘珍樓総料理長などを勤めた。

崎陽軒(きようけん);神奈川県横浜市西区に本社を置く、主に焼売(シウマイ)及びシウマイ弁当の製造販売ならびにレストラン経営を行う企業である。 崎陽軒は1908年に初代横浜駅(現在の桜木町駅)構内の売店として開業した。横浜名物のシウマイ(崎陽軒の焼売はシウマイと表記する)、駅弁の「シウマイ弁当」を製造、販売していることで知られる。また、中華料理店やイタリア料理店、シウマイBAR(バル)といった飲食店も経営している。工場は本社の地下(本社工場)と横浜市都筑区(横浜工場)、東京都江東区(東京工場)の3か所に所在。このうち横浜工場は見学やできたてシウマイの試食、プチミュージアムショップでの買い物ができる。
 右写真、崎陽軒の焼売弁当。
 現在の昔ながらの弁当は860円(税込)ですが、顧客が贅沢になって、「特製シウマイ」が高級感のある焼売を詰めた弁当も発売されています。今となって、横浜名物はこの焼売弁当で、昔、横浜駅に着くと駅弁売り子さんを探して買ったものですが、東海道線の車両は窓が開かないタイプになって、また、新幹線でも買えなくなってしまいました。ホームの売店では売ってますが、買いに走る程停車時間はありません。

お箪笥長屋の引出し横丁;裏長屋の一部屋を、シャレを使って言い換えています。

渭水(いすい);甘粛省渭源県の西にある鳥鼠山(鳥鼠同穴山)を源流とする。陝西省咸陽市の南、西安市の北を流れて黄河中流の潼関で合流。全長818km。流域の盆地は渭河平原(関中)と呼ばれる。 現代中国では「渭水」よりも「渭河」(いが、拼音: Wèi hé)という呼び方が普通である。 支流には「涇渭」という熟語の出典にもなった涇水(けいすい、涇河)、洛水(らくすい、同名の黄河の支流とは異なる。洛河)、灞水(はすい、灞河)、白居易が元稹と別れた灃水(ほうすい、灃河)などがある。
 渭水の北岸で釣りをしていた太公望に、狩猟をしようとしていた周の文王が出会った、という伝説が『史記』に書かれている。

太公望(たいこうぼう);呂尚(りょ しょう、Lü Shang)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。諡は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。
 呂尚が文王(中国古代、殷(いん)末の周の王。武王の父。有能な人材を集め、徳治を心がけて、周王朝の基礎をつくった。後世、儒家から理想の君主とみなされる)に仕えた経緯については、『史記』に逸話が紹介されている。その中で一番有名な故事が、 文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は、「吾が太公が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。
 『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)。

 「明初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅」 部分。

馬嵬の浜(ばかいの はま);以前から、唐の皇帝・玄宗の宮廷内で対立を深めていた楊国忠(楊貴妃の従兄)と安禄山だが、楊国忠が宰相となると、遂に対立が深刻化・表面化し、楊国忠の讒言によりその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月に挙兵した。これがいわゆる「安史の乱」であり、安禄山は幽州で挙兵したのち、見る見るうちに勢力を拡大していった。これに対して唐は756年6月、哥舒翰に出撃を命じるも、安禄山軍に敗北した。
 混乱状態に陥った唐の宮廷は、楊国忠らの進言により、756年6月13日、宮廷を脱出し、楊国忠の本拠地で、節度使を務めていた蜀に逃亡を試み、玄宗は蜀へと敗走することとなった。しかし、その途上の馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で護衛の兵たちが反乱を起こし、兵たちはこの反乱の元凶を断罪するように玄宗に迫った。その結果、宰相の楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、幼兄弟と共に兵士に惨殺された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪で、楊貴妃を殺害することを要求した。しかし、楊貴妃を寵愛していた玄宗は、「楊貴妃は後宮の奥深くにいて、謀反とは関係は全くない」と言い、死を逃れさせようとかばったが、やむなく部下の高力士によって楊貴妃は絞殺された。玄宗は泣きながらその姿を見届けた。
 噺の中で馬嵬の浜と言っているのは、釣りの帰りだからです。

ふくべ; 瓢箪 (ひょうたん) のこと。特に、その果実から作った容器。酒などを入れる。ユウガオの変種。果実は苦味が強く、果皮が堅い。容器にし、また観賞用。

紹興酒(しょうこうしゅ);中華人民共和国の浙江省紹興市の鑑湖の湧水を使って醸造し、3年以上の貯蔵熟成期間を経た黄酒(ホアンチュウ、すなわち醸造酒)です。中国では鑑湖の水で仕込むので、鑑湖名酒とも言う。アルコール度数は14 - 18度。飲用にするほか、料理酒としても用いられる。 黄酒を長期熟成させたものを老酒(ラオチュウ)と呼ぶ。中国青島市の即墨老酒は代表的な老酒(中国以外の台湾・日本で作られたものも老酒と言うこともある)。原料は餅米を使っています。

 日本では、紹興酒に角砂糖等の糖類を入れる飲み方が浸透している。これは最近まで質のよい紹興酒が日本に輸入されず、糖類で誤魔化して飲んでいたことが発端であるとまことしやかに言われているが、日本だけでなく江南地方で一般的に飲用される方法なので、この地方の飲み方が伝わった可能性が高い。話梅と呼ばれる甘い干し梅を砂糖の代わりに入れる飲み方もある。 近年ではコーラなどの炭酸飲料で割る『ドラゴンハイボール』も提唱されている。

楊貴妃(よう きひ);(719年6月22日(開元7年6月1日) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月14日))三十七歳歿、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
 有名なエピソードとして、楊貴妃がレイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことも伝えられる。玄宗が毎年10月に華清宮(温泉宮)に赴き、その冬を過ごす時に楊貴妃が同じ輿に乗り端正楼に住み蓮花湯という温泉に入っていたことも知られる。
 上記馬嵬で絞殺された楊貴妃最後の言葉は、「陛下、死んでもあなたを恨みません」であったという。

  

 『楊貴妃』部分 上村松園画

東天紅(とうてんこう);ニワトリの品種の一つ。声良・唐丸とともに日本3大長鳴鶏の一つとして知られ、昭和11年9月日本の天然記念物に指定された。東天紅という名称は、夜明けの東の空が紅に染る頃、天性の美声で謡うところから命名されたといわれている。
 右写真、『東天紅』雄鳥。 東京国立博物館蔵。

茅台酒(マオタイシュ);中華人民共和国貴州省特産の高粱(カオリャン、蜀黍、モロコシ)を主な原料とする蒸留酒。白酒の一つで、世界三大蒸留酒の一角に数えられる(他はスコッチウイスキー、コニャックブランデー)。強い芳香があり、飲み干した杯にもなお香りが残る。名前は産地の茅台(貴州省北西部仁懐市茅台鎮)に由来する。この酒は1915年に開催されたサンフランシスコ万国博覧会で金賞を受賞。
 地元産高梁と、長江支流である赤水河の水を用いる。高温多湿な気候を利用しつつ、原料の蒸しと発酵、蒸留を繰り返す「九蒸八酵七取酒」により造った酒を3年以上寝かせ、調整・配合を経て再び寝かせる。全工程は5年近くかかる。ワインなどのように古酒もある。偽物が多数出回っており、実際の生産量の倍以上の偽物が流通していると言われている。
 アルコール度数は53%。かつては65%であったが、近年35~47%に下げられている。 飲み過ぎても二日酔いせず、むしろ適度の飲用は健康に良いとされる。

ピータン(皮蛋);アヒルの卵を強いアルカリ性の条件で熟成させて製造する中国の食品。鶏卵やウズラの卵などでつくられる場合もある。高級品には白身の表面にアミノ酸の結晶による松の枝のような紋様がつく。
 皮蛋は、アンモニアや硫化水素を含む独特の匂いと刺激的な味を持つ。なお、食べるときは殻についた粘土や籾殻などを洗い落としてから殻を剥いて食べる。できればスライスしてしばらく空気にさらし、匂いが減ったころに食べるとよい。
 石灰や木炭を混ぜた粘土を卵殻に塗りつけ、さらに籾殻をまぶして甕の中のような冷暗所に2か月程貯蔵する、とされているが、消石灰、炭酸ナトリウム、塩、黄丹粉(一酸化鉛)で作ることもできる。 石灰によって徐々に殻の内部がアルカリ性となり、タンパク質が変性して固化してゆく。白身部分は褐色のゼリー状、黄身部分は暗緑色になる。
 右写真、ピータン。

ザーサイ(榨菜);アブラナ科アブラナ属の越年草。又、それから作られる中国の代表的な漬物のこと。味はさっぱりとして苦味があり、脂っこい料理に合うと勧められている。
 塩抜きしてから刻んで薬味にしたり、ゴマ油で炒めて食べる。中華粥には欠かせない薬味であり、中華まんや餃子の具にも使われる。酒の肴としても食べられている。
 右写真、ザーサイ。

七尺あまりの大男;樊噲のこと。7尺というと、約212cmですから、巨漢です。

我が骸骨を乞う;樊噲の辞職の言葉で、「身をささげて仕えた身だが、老いさらばえた骨だけは返して欲しい」、という意。



                                                            2021年6月記

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