落語「手切れ」の舞台を行く
   

 

 笑福亭鶴志の噺、「手切れ」(てぎれ) 別名「手切れ丁稚」より


 

 まぁ、お手掛けさんも色々あるもんでございますが。このお噺は月に七十円ぐらい(中級位)もぉたはるお手掛けさんのお噺でございまして、頃は七月祭り月、時刻はお昼を過ぎました三時ごろのお噺で・・・。

 「お梅ちゃん、いててやの?」、「まぁ、お寅はんでっかいな、どぉぞこっち入っとくれやす」、「ほな入らしてもろてもかめしまへんやろか?」、「どぉぞこっち入っとくれやす。最前から一人で一杯やってたとこでおますねん、一緒にやりまひょいな」、「えらい厚かましぃけどよばれるわ」、「お互いですやないか」。
 「もぉ嫌。わてホンマあのお爺やん嫌やの」、「何で」、「『絽(ろ)の着物が欲しぃ』ちゅうたん。『よっしゃ、わしが一緒に三越行こ』やて。お爺やんと一緒に歩くのん、まるで孫みたいなもん、周りのもんが見てクスクス笑いまっしゃないか」、「そんな贅沢なこと言ぅし」、「三越行ってエレベ~タに乗ったん、エレベータガールがな、『何かい(階)でございます?』と、こぉ尋んねたん。黙ってりゃえぇのに、『まぁ若いときは毎日でもよろしおましてんけども、この頃は歳がいて、ひと月にいっぺんが関の山でおますわ』、わたい顔から火が出てんし。周りに乗ってる人が一瞬間を置いてドッと笑ろてんさかいに。エレベータ動き出したら、『恐いこわい』ちゅうてブルブル震えて、わたいの袂しっかり持って離せへんねんし。
 ほんで三越の表出たら公衆電話と公衆便所と間違ごぉて。交差点の真ん中に行たらな、電車と電車のあいだに挟まれて、『恐いこわい』ちゅうてあんた。もぉあんまり恥ずかしぃさかい無理矢理電車に乗したん。大きなイビキかいて寝てるやないの。水鼻垂れてるわ、よだれが流れてるわ、『あぁ嫌やなぁ』と思てたら、だれぞ電車の窓を開けはったんや。ほなえらい風で、なんぞ飛んだなぁと思たら、うちのお爺やんのカツラが前へポ~ンッ。『もぉ、わたい嫌やなぁ』と思てたら、今度お爺やん大きなクッシャミしたんやがな、その勢いで入れ歯が前へポ~ンと飛んで出たん。誰もいてへんかったから良かったもんの、前のイスの背もたれにポンと当たって跳ね返って、入れ歯がこっち向いてイスの上へ乗ったんやがな。子どもが、『お母ちゃん見てみ、イスが笑ろてる』て。わたいホンマもぉあんなお爺やん嫌やねん」。

 二人が呑みながらしゃべってますところへやってまいりましたのが、年の頃なら十一、二の丁稚さんでございまして、顔にニキビを作りまして、
 「こんちわ」、「まぁ、定吉っとん」、「旦さんのお使いで寄してもらいました。あの、『これ見してな、お返事もろてくるよぉに』こない言ぅたはりました」、「そらご苦労さん」、「お梅はん、わてあんたになお願いしたいことがありまんねん」、「定吉っとん、何やねん?」、「思い切って言ぃますけどな、うちの店朝早よおまんねん。いつでも眠となりまんねん。ちょっとわたい、ここで昼寝さしてもぉてもかめしまへんやろか?」、「それやったらな、今お布団出したげるさかい、そこへ寝なはれ」。
 「今ちょっと手紙読んでみまっさかいな・・・、え~、『前略ご免下されたく候』か、『あなた様のお申し込みの一件、当方にも都合これあり。一時、お断り申し上げ候。また、あなた様には、他にもお楽しみがあるとのこと・・・』まぁ、嫌やの。あの渋ちん、もぉヤキモチ焼いてから・・・」、「どないしてやってん?」、「わたいな、あのお爺やんに百円無心したん。そしたら断ったうえにな、ほかにも楽しみがある、わたいが浮気してるて言ぅてまんねがな」、「それだけあんた惚れられてたら喜ばないかん」、「嫌ッ、もぉわたいなぁ、もぉ絶対嫌ねん」、「辛抱しぃな」、「もぉわたいなぁ、この百円もろたらスッパリ手ぇ切ろと思てますねん」。

 「あ~よぉ寝た。お梅はんおおきに、ほんだらわたい帰らしてもらいまっさ」、「定吉っとん、あんた起きてたんやな」、「わたいよぉ寝てました」、「嘘つきなはれ、あんた隠密(アンミツ)やろ」、「いえ、わたい善哉(ぜんざい)が好きだんねん」、「何の話をしてんねん、あんた今わたいの話みな聞ぃてたやろ、それを旦さんに告げ口するつもりやな。汚い手ぇ使うもんやなぁ、あの入れ歯のハゲは、ホンマにもぉ。定吉っとん、こっちおいなはれ。これ、あんたにあげます、好きなもん買いなはれ」、「えッ、これ一円。わてなぁ、一円あったらな活動写真二、三本見てな、洋食食いたいな~と思てましてんけどな」、「その代わりな、今の話、絶対店帰って言ぅたらあけへんし」、「いえぇ、言えしまへん。わて口の硬い男で有名でおまんねんさか」、「それよりもな、わたいがあの旦さんに、『惚れて惚れてしゃ~ない』言ぅねんし」、「へッ、分かりました。ほな、さいならッ」。

 「へッ、旦さんただいま」、「で、どやった?」、「わたいね、路地(ろぉじ)口まで行てね、足忍ばしてソ~ッと入って門口(かどぐち)まで行たんだ。ほたらね、話し声聞こえてきまんねん。わて、『こらいかんな』と思てね、パッと飛び込んだったんだす」、「で、どやった。えぇ男やったか? 違うか。相方は、それやったら、お寅やろ。お梅はな、浮気できるよぉな女ごやないねん。で、何ぞ言ぅてたか?」、「お梅はんがね、『わたい何でこないに旦さんに惚れたんやろ、もぉ自分の体が分からんよぉになるほど旦さんに惚れたんや』と、こない言ぅたはりました」、「分かってたけど、そぉいぅこと確かめたかったんや。ほかに言ぅてた?」、「ほんでお寅はんがね、言ぃはったんでおますわ、『あんたな、そんなに旦さんに惚れてなはんねやったらな、何ぞ心中立てせないかんやないか』と、こない言ぃはったらな、お梅はんが、『わたいはあの旦さんのためなら、どんなことでもする』言ぅたはりました」、「偉いなぁ、さすがお梅や。またそれに加えてお寅、えぇこと言ぅてくれたなぁ。で何か、わしに心中立てっちゅうて、指でも切るっちゅうたか」、「アホらしぃ、指どころやおまへんで、百円もろたら、スッパリ手ぇ切る言ぅたはりました」。

 



ことば

お手掛けさん;関西では主にこの様な言い方をしますが、東京では”お妾(めかけ)さん”と言います。目を掛けるのか、手を掛けるのかの違いです。どちらが良いのか悪いのかは分かりません。また関西では、こなからさんとも言います。これは、一升の半分五合はなからと言い、その半分二合半を小半(こなから)というところから、二号はんは二合半、こなからさんと言います。

囲い者は妾のことで、囲い者にも上・中・下があった。
 まず、中級の囲い者の住居は、表通りからはいった新道の仕舞屋である。
 玄関は格子戸で、竹の簾を半分巻き上げている。格子戸の内側には数種の盆栽が置かれていた。
 部屋の壁には掛け軸が一幅掛けられ、その横に二丁の三味線がつるされていて、ひとつは袋にはいっているが、もうひとつはむき出しだ。
 長火鉢では鉄瓶が白い湯気をあげている。
 寝間には枕元近くに鏡台を置き、化粧道具や髪飾りが並んでいた。
 住んでいるのは囲い者のほかに、婆やと下女、それに雌猫で、女ばかりの暮らしである。そこに、時々、旦那がやってくる。

 上級の囲い者の住まいともなると、敷地は黒板塀で囲われていて、門はいつも閉ざされている。
 庭には竹が数本植えられ、苔むした石が配されていた。松の木の下には石灯籠が置かれ、茶室もある。
 女中や下女など奉公人の数も多い。
 しばしば道具屋が出入りし、時には馴染みの幇間が話をしに来る。
 年老いた旦那は妾宅に来ても、囲い者に河東節を歌わせたり、春本をながめたりしているだけで、房事はほとんどない。いわば、若い女を飼い殺しにしているようなものである。
 こうした妾宅では、旦那の一カ月の出費は二十五両にもなった。
 
 下級の囲い者では、別宅に住まわせることなどできないため、旦那が女の家に通ってくる。
 二階建ての家で、囲い者は二階に住み、両親は階下に住んでいた。
 旦那は二階で、囲い者との房事を楽しむわけである。

 さらにランクが下がった囲い者に、安囲いがあった。
 男が五人くらいで、共同でひとりの女を囲うのである。五人の割り勘だから、安くついた。
 五人の男はスケジュールを立て、鉢合わせしないように女のもとに通う。
 (寺門静軒著『江戸繁昌記』より)

 当時、妾(囲い者)は女の職業で、妾奉公と呼んだ。 口入屋が斡旋し、きちんと契約書も取り交わす。
 料金は二カ月契約で、高い場合は五両、安い場合で二両くらいだった。
 もちろん、口入屋が手数料を取るので、女の手元にはいる金額は五両や二両ではない。
(永井義男の「江戸の醜聞愚行」・第267話 囲い者の上中下より)

 もう一つ囲い者の話、
 明和・安永(1764~81)のころ、江戸で小便組という一種の詐欺が流行した。
 若くて美貌の女が、妾奉公を望んでいる。たまたま、妾を囲いたいと願っていた大店の主人などは、女をひと目見るや、その容色に迷い、高額の前金を出して、契約を結ぶ。
 別宅を借り受け、同衾を始める。ところが、女には思いがけない悪癖があった。なんと、毎晩、寝小便をするのだ。旦那も、これには閉口する。
 「これは、あたくしの病でございます。しないようにしようとしているのですが、どうしても治りません」。
 妾がさめざめと泣きながら謝ると、旦那としても叱ったり、責めたりもできなかった。病気とあれば、仕方がない。
 けっきょく、旦那は暇を出す。旦那の側からの契約破棄だし、同情もあるため、前金で渡した金を返せとはいいにくい。数年契約だったはずが、ほんの半月や、数日で終わってしまい、金は戻らない。旦那としては大損である。暇を出された女は素知らぬ顔をして、別な奉公口をさがす。
 もちろん、先方から暇を出させるよう、わざと寝小便をしていたのだ。
 この詐欺は小便組と呼ばれて評判になり、あちこちで真似をする女が続出した。引っかかる男も、あとを絶たなかった。
 
 ある旦那が妾を囲ったところ、寝小便の癖がある。「ははん、例の小便組だったか」と、自分がだまされたことを知った。それにしても、このまま暇を出して、みすみす金を失うのは悔しい。そこで、旦那はひそかに医者に相談し、一計を案じた。旦那が妾に言った。
「おまえの病気が不憫でならぬ。どうにかして治してやりたい。きょうは、名医をお呼びした」
 やおら、医者が登場する。
「寝小便を治すツボがありましてな。そこに灸をすえれば、いっぺんに治りますぞ」
 妾は思いがけない展開に内心狼狽したが、いまさら逃げも隠れもできない。やむなく、灸の療治を受けることになった。医者は妾の下腹部をあらわにし、そこに、モグサを鶏卵の大きさほど盛りあげ、火をつけた。
 火がじわじわと下におりていく。まさに、炎熱地獄である。妾もその苦悶に耐えられず、
「熱い、熱い、これでは焼け死んでしまいます。勘弁してください」
と、許しを乞い、その日から、寝小便はピタリとやんだ。
 この対応策がぱっと広まり、あちこちで、旦那は妾が寝小便をすると下腹部に巨大な灸をすえるようになった。
 以来、さしもの猖獗(しょうけつ=わるいものの勢いの盛んなこと)を極めた小便組もピタリと終息した。
 (小宮山楓軒著『楓軒偶記』より) 著者の小宮山楓軒は水戸藩士で、儒学者。

 江戸時代、妾奉公ということばがあったくらいで、妾はあくまで奉公だった。女の職業のひとつといってもよかった。将軍や大名、大身の旗本などの側室とは根本的に違う。彼らは、家を絶やさないように、男の子をもうけるのが主目的で、奥様に子供が出来ても生存率の低い時代スペアーは必要であった。
 さて、相応に金もあり、妾を囲いたいと思う大店の主人などは、口入屋に頼んで妾を紹介してもらった。口入屋は、いわば人材斡旋業である。口入屋が介在するだけに、きちんと年季と給金をきめ、証文を取り交わした。
 世話焼き婆さんが個人的に妾を紹介することもあったが、その場合でもきちんと証文を取り交わし、婆さんはちゃんと手数料を取った。
 契約がまとまると、小粋な別宅を借りて妾を住まわせ、旦那はそこにかよった。小便組は、こういう契約を逆手に取っていたわけである。

永井義男の「江戸の醜聞愚行」より

手切れ(てぎれ);それまでの互いの(特に男女間の)関係を絶つこと。また、手切れ金の略。

笑福亭鶴志(しょうふくてい かくし);(1955年8月24日 - 2020年5月8日)。本名は冨松 和彦。出囃子『鞍馬』。大阪市出身。右写真。
 1974年6月5日に六代目笑福亭松鶴に入門。高座名を決める際、当初は「鶴枝」の予定だったが松鶴の犬の散歩に行っている20分の間に「鶴志」に変わり「鶴枝」の名は幻となった。その師匠・松鶴の内弟子時代が長く、また師匠の専用運転手を務めていた。その当時の話を枕に使うことがあった。 1975年に大須演芸場(愛知県名古屋市)にて初舞台を踏むが、上方落語家としては異例の関西以外での初舞台であった。ちなみにその時の演目は「つる」。 2018年に肝臓癌に罹患し、肝臓の半分を切除摘出する大手術を受けるも驚異的回復を見せて高座復帰を果たしていた。 2020年5月7日に体調不良を訴えて急遽大阪府内の病院に搬送されたが、翌8日未明に心不全・腎不全のため死去した。64歳没。弟子はいなかった。

丁稚(でっち);丁稚とは、商家に年季奉公する幼少の者を指す言葉。丁稚として働く ことを丁稚奉公といった。職人のもとでは徒弟、弟子、子弟とも呼ばれる。江戸時代に特に多かった。明治時代以後はいわゆる近代的な商業使用人となっていく。 現代でも一般社員が自嘲的に、「まだ丁稚です」と比喩的に使う事もある。
 上方言葉の丁稚に対して、江戸では、小僧と言った。

絽(ろ)の着物;絽は、搦(カラミ)織物の一種。紗と平織とを組み合せた組織の織物。緯(ヨコ)3越・5越おきに透目(スキメ)を作った絹織物。紋絽・竪絽・絽縮緬などがある。夏季の着尺(キジヤク)地用。その絽から作られた着物で地が透けて見えて涼しさを感じさせる。着物だけでなく、帯、襦袢、衿、羽織、等々があります。

三越(みつこし);1691年 - 大坂・高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設。
 1837年 - 大塩平八郎の乱で大坂店が襲撃され全焼。
 1875年 - 大坂店が規模を縮小し高麗橋三丁目に移転。
 1894年 - 大阪店が高麗橋二丁目堺筋角に復帰。
 1907年 -  旧越後屋跡地に大阪店開店。
 1911年 - 大阪店 木造30mの飾り窓付き2階建新館が落成。
 1917年 - 大阪店新館が開店し地下1階地上7階の大阪最大のルネッサンス式建物となる。
 1920年 - 大阪店が東館完成により全館開店。
 1921年 - 大阪店、西日本の百貨店では初の下足預かり廃止。
 1925年 - 大阪店屋上にて大阪放送局(現NHK大阪放送局)が仮放送開始。
 1928年6月1日 - 商号を「株式会社三越」に改める。
 1937年 - 大阪店改修工事が完成し新式冷房装置を新設。
 1974年 - 大阪店新館増築完成。
 1976年 - 大阪店全館改装オープン。
 1995年 - 大阪店が阪神・淡路大震災により被災。被災した旧館部分を取り壊す。
 2005年5月5日 - 三越大阪店閉店。跡地:大阪市中央区高麗橋1丁目にある超高層マンション。北浜タワーと呼ばれることもある。なお、北浜から撤退した三越は2011年、JR大阪駅・大阪ステーションシティに「JR大阪三越伊勢丹」として移転・再開業した。右写真、閉店をする三越大阪店。

エレベータガール;一部の百貨店や観光用の高層建築物などのエレベーターに乗務し、運転操作や案内を担当する女性のこと。「エレガ」「エレガー」「EG」と略される。男性が同様の業務を行う場合は「エレベーターボーイ」と呼ばれる。
 昭和期には、大半のエレベーターガールは独特の制服を着用していた。つば付きのフェルト帽に明るい色のレディーススーツ、白手袋などがアイコンであり、服装の色合いは落ち着いた色合いで上品さを強調するが、帽子のリボンやスカーフなどのワンポイントにより華やかさを出していた(いわゆる「モダンガール」的な服飾であり、スチュワーデスやバス添乗員など昭和に社会進出した女性の制服と軌を一にする)。ファッションとしては平成期までには陳腐化したが、レトロモダン的な昭和ノスタルジーの一つとして懐古されることも多い。

顔から火が出て;深く恥じ入って赤面する。恥ずかしさの余り顔を真っ赤にすること、あまりに恥ずかしくて顔が熱く感じることなどをたとえた表現。
 目から火が出たり、顔から火が出たり、気をつけないと火事になります?

電車(でんしゃ);大阪市営電気鉄道(おおさかしえいでんきてつどう)、略称大阪市電(おおさかしでん)は、20世紀の前半・半ばに大阪市が経営していた路面電車。大阪市交通局が事業を行っていた。 1903年に開業した日本で最初の公営による電気鉄道及び狭義の「市電」であった(1895年に日本で最初に電気鉄道が開通した京都市での公営路線の開通は1912年、全面市営化は1918年)。1969年3月31日限りで全廃されたが、当時の政令指定都市で市電全廃を断行したのも大阪市電が最初である。その後、地下鉄が走るようになりました。右写真、大阪市電。

百円無心(やくえん むしん);遠慮なく物をねだること。 百円=「一円あったらな活動写真二、三本見てな、洋食食いたいな~」と定吉っとんは言っています。現在の価格に照らすと約1万円ぐらいでしょうか。その換算で行くと百円は百万円ぐらいでしょうか。

隠密(アンミツ);おんみつ=主君などの密命を受けて秘かに情報収集などに従事する者、江戸時代の密偵。
 定吉っとんは聞き違えて、アンミツと間違え下記のように善哉と答えてしまった。

善哉(ぜんざい);関西では、つぶし餡(アン)の汁粉。関東では、粟餅・道明寺餅・白玉餅などに濃い餡をかけたもの。
 「ぜんざい」は地方によって指すものが違うこともあります。関東では、お汁粉に比べて汁気のないものを表しますが、関西では「つぶしたあんこでつくったお汁粉」のこと。こしあんでつくられたものはそのまま「お汁粉」と呼ばれます。汁気の少ない関東の「ぜんざい」は、関西だと「亀山」に当たります。

心中立て(しんじゅうだて);との約束を守りとおすこと。特に、相愛の男女が誓いを守りとおすこと。また、その証拠を示すこと。



                                                            2021年12月記

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