落語「故郷へ錦」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「故郷へ錦」(こきょうへにしき)より


 

 「何やねん」、「あぁ兄さん、お忙しぃのにすんまへん」、「また、作ぼんに変でも起きたんやないか思て。病状はどんな具合や?」、「兄さんに来てもろたといぅのは、お医者はんのおっしゃるには、『この子の病は薬浴びるほど飲んでも治らん。何かこぉ思い詰めてることがあって病気になってんねや。その思い事といぅのを叶えてやるか、まぁしゃべらすだけでも・・・』と、こぉ言ぃはるのんどす。親にはかえって言ぃにくいこともある。男親がおったらえぇねんやろけど、わて一人だっしゃろ。まぁ男同士で、兄さんとは伯父・甥の間柄やし、どんなことを思い詰めてるのか、聞き出してやってもらえんかと思いましてな」、「ん~、心配なこっちゃ、なぁ一粒種やさかい。まぁおれに任しとけ、男同士また話が早いわい」。

 「作ぼん、作次郎・・・」、「あッ、おっさんお越しやす」、「何といぅ情けない顔してんねん。お前と俺と血の繋がった、たった一人の甥ちゅなお前しかないねん。お母んにしてみりゃ一粒種の息子やろ。お医者はんは、『お前の病気は何か心に思い詰めてることがあって患ろぉてんねやと。その思い事を叶えてやらねば』といぅことなんやけど、お前、そんなことあんのんか」、「さよか・・・、さすがはご名医でんなぁ。実はそのとぉりでおます」、「ほな、その思い事といぅのをわしに聞かしてみ」、「言ぅて叶えられるよぉな望みなら、すぐにでもお話しいたしますけど、こればっかりはもぉ、口に出して言ぅのも恐ろしぃよぉな・・・」、「わいにだけ言ぅてぇな。なるほどこれは無理な願いやと思たら、わしゃもぉ誰にも言わん。母親にも言わん。何とかしよぉのあるもんやったら、また考えよやないかいな」、「おおきに、そないまで言ぅてくれはんねやったら、ほなおっさん、あんさんにだけ聞ぃてもらいます。実はなぁ・・・、恋患いでんねん」。
 「恥ずかしがらいでもえぇがな、オボコイなぁ。せやけど、もぉじき前髪を落とそといぅ歳や、恋患いぐらいしたって当たり前や。恥ずかしぃこと何もない。お前ぐらいの歳にはわしゃもぉ、女の味知ってたんやがな。男が女に惚れるんや、何恥ずかしぃことがあるかい。相手は誰や? 分かった、向かいにあるがな。向かいのお照ちゃんやろ。別嬪になりよったがな、えぇ娘(むすめ)になって・・・」、「違いまんねん」、「あぁほなら、お前のあの稽古友達の何とかいぅたなぁ、お時ちゃんか?」、「違いまんねん」、「ほな、どこの娘(むすめ)?」、「娘はんと違いまんねん」、「ほな芸妓はんか?」、「違いまんねん。この町内の・・・」、「誰やねん?」、「後家はんでんねん・・・」、「この町内で後家はんときたらお前、薬屋の後家はん」、「違いまんねん」、「ほな紙屋の後家はんか」、「違いまんねん」、「紙屋でもないのん? 待ちや、後家はんちゅうたら、もぉお前のお母んぐらいしかないで」、「実は・・・、そぉでんねん」、「えぇ~ッ、いやお前、母親に惚れた? お前、あのお母んから生まれたんやで・・・。おい、前髪つけてる歳で、また何でそんな妙なことを考え・・・」、「せやさかい、これはとても人には言えん話やと・・・」、「お母んに死ぬほど惚れるちゅうには、何かわけがあんねやろ」。
 「いえ、わけといぅておまへん。こないだの夏な、踊りがおましたやろ、町内で。わて、若い連中の世話方になったもんやさかい、毎晩遅そぉ帰ってましたんや。あの晩もだいぶ遅そなって帰ってきたら、お母はんわたい待ってるあいだに寝てしまいましたんやろなぁ・・・ 。蚊帳が吊ってあって、枕もとに有明の行灯(あんどん)。ボ~ッとこぉ灯が流れてます。暑いもんでっさかいお母はん、胸元はだけて、裾を乱して、水色の蹴出(けだし)から白い足がスッと出て、蚊帳越しに・・・、こんなん見たらおっさん、あんたどんな気がする?」、「もぉ、そんな嫌らしぃこと言ぃないなおい、『どんな気がする』って、そら、母親やないかいな」、「まぁその時わて、カ~ッとなって口の中カラカラで、頭ガンガ~ンと鳴って、二階上がって布団被ってしまいましてんけど、寝られしまへん。こんなこと人にも言えず思い詰めて、寝ててももぉ頭ん中にはあのときのあの蚊帳ん中のあれが、絵ぇのよぉに焼き付いてしもて、もぉそれからズ~ッと頭離れまへんねん。こんな因果なことして、ホンマに畜生みたいな話でっさかいな、もぉ誰にも言わんと死んでしまおと思てましたんやけど、『何が何や分からずに死んだら、かえって心残りや』と言われます。どぉぞおっさん、あんさんの胸にだけこれ隠して、どぉぞお母はんにも誰にもおっしゃらんよぉに。わたし死にますよってに、あとは・・・」、「ちょっと待ち。えらいことになってきたなぁおい、汗かかしやがんねんこいつ・・・。あのなぁ、せやけどお前、これ困ったなぁ、いや、ちょっと待ち。死ぬのはお前、いつでも死ねんねん、そぉ死に急がいでもえぇ」、「いえ、もぉわて、あしたにでも・・・」、「お前が死んだら、あのお母ん生きてへんでおい。わいの身内みな死んでまうことになるやないか。とにかく、ちょっと気を確かに持って死なんと待ってて、俺がもぉいっぺん帰ってくるまで、えぇか、ちょっと待ってぇ・・・」。

 「何をしよるやら・・・、おい、ちょっと」、「兄さん、えらいすんまへん。どんな具合?」、「えらいこと言ぃよった。とにかくお前、落ち着いて聞きや。あのな、あいつ恋患いやねん」、「で、その相手は? ひょっとしたらお向かいの娘はん?」、「『相手は娘はんと違う』ちゅうねん」、「ほな、なんかこぉ芸者はんか何か?」、「それでもないねん、後家はんやて」、「後家はん? まぁ、子どものくせに・・・、この町内に?」、「お前や」、「えッ。兄さん、そんなアホなこと」、「まぁそら、わけないこともないんやけどもな。死ぬ気になってるで、あいつ。でや? お前、子どもの命が助けたかったら、いっぺんだけ、『うん』と言ぅか?」、「そんなアホなこと言ぃなはんな、子ども相手にそんな。あれはわてのお腹痛めて生んだ子ども・・・」、「しゃ~ないがな、もぉしゃ~ない・・・、どないする?」、「『どないする』て、兄さん。そんなアホなことができますかいな、考えてもみとぉくなはれ」、「そらそぉや、お前な、亭主が死んでからズ~ッと後家を立て通して今日(こんにち)まできたんやけれども、そのお前、頼りにする育て上げた子どもが、『死ぬ』ちゅうてんねやないかい。子どもの命を助けるためにやで、そら今まで操を守ってきたけれども、子どもの命に関わるこっちゃないかい。昔の常盤御前ちゅう人は、子どもの命助けるために操を破って操を立てた」、「それとこれとは話が違いまんがな。そんなことができるか・・・、いや、そら死なれたら困りますけど。そぉかてあんた、どぉ考えたって・・・、え?うん・・・、それでもあんた、よぉそんな・・・、いえ、あの、うん・・・、そらまぁ、黙ってりゃ分からんことかも知れまへんけどあんた・・・、え?うん・・・、うん・・・、ほたら・・・、いっぺんだけだっせ」、「承知してくれたか、あ~ッ、ホンマに冷や汗かいた。ちょっと待ってや、ほんならあいつのとこ言ぅてくるさかいな・・・」。

 「ちょっと、おい作ぼん」、「おっさん、最前はえらいすんまへん。もぉ最前の話は聞かなんだことやと思て、どぉぞ忘れとぉくれやす。あしたあたり、わたし死にまっさかい、わたしの亡いあとはどぉぞお母んを・・・」、「ちょっと待ち。それがな、今お母はんに言ぅたんや、もぉ思い切って。ほたらな、いっぺんだけ・・・、そのかわりいっぺんだけ、あきらめてや。それで元気出してや。とにかく、今晩お母んのとこへ忍んで行き。そぉいぅことにしてきたさかい。えぇか、もぉあとは内らのこっちゃ、もぉえぇよぉにしぃな、もぉわいいぬさかい・・・」。

 びっしょり汗をかいて、おっさん、逃げるよぉに帰ってしまいます。息子のほぉはさぁ元気が出たといぅか、恥ずかしぃといぅか、どぉしてえぇねやら分からん。まぁとにかく長いこと風呂にも入ってない、表へ飛び出して風呂屋へ入って、床屋へ回って、艶々と綺麗ぇな前髪を結い上げますと、どこでどぉ何を手回したのか、大きな風呂敷包みを背中に負ぉて家へ飛んで帰ってくる。恥ずかしぃもんでっさかい、母親に声もかけずに二階へ上がったきり降りてこん。
 日が暮れます。お母さんのほぉはもぉなんとも言えん気持ちでんなぁ。亭主が死んで八年間、ズ~ッと守ってきた操。八年ぶりの相手が自分の子ども。箪笥の一番~ん下から何年ぶりかの長襦袢を取り出してきて、鏡台の前へ座る。薄化粧。まぁ因縁と思て諦めなしょ~がないが、一体どぉいぅことになるのか知らん・・・、用意はできたけど、まだ降りてけぇへんが、ホンマによぉ降りてくるのかしら? 待ちくたびれてキセルを取り上げて一服、また一服。「こんな気になってんのに、あの子来なんだら、またよけ困るがな、どないしてんねやろ?」キセルを投げ出しますと、階段の下へ行って、
 「これ、どないしてんねやな? 作ぼん、お母はん待ってまんねやがな。これ、作次郎、作ぼん・・・、降りといなはれ」、「ははッ、母人(ははびと)それへ、あッ、参るでござろぉ~ッ」、ヒョイッと見ますと、金襴(きんらん)の裃、長袴。前髪がよぉ映って武田勝頼か十次郎のよぉな格好をしてる。母親の前へ手をつかえて、「はは~ッ」、「びっくりするやないかいな。この子何ちゅう格好してくるんや、金襴の裃着たりして? こんなことするのに、そんな格好が要るかいな。お母ん見てみなはれ、長襦袢の下何にもあれへんやないの。どないしたんこんなもん? え? 衣装屋で、借ってきた? アホかいな。何でこんな格好してきたんや? 」、「でもお母はん”故郷へは錦を飾れ”と言ぃます」。

 



ことば

伯父(おじ);父・母の兄弟。また、おばの夫。父・母の兄には「伯父」、弟には「叔父」と書く。

(おい);兄弟姉妹の息子。 姪(メイ)=兄弟姉妹の娘。

一粒種(ひとつぶだね);(大切にしている)ひとりっ子。

恋患い(こいわずらい);恋の病。恋愛の情にとりつかれて心身が病気にかかったようになった状態。落語・芝居・小説等の題材となる。

オボコイ(おぼこい);まだ世間のことをよく知らないために、すれていない男子や娘。うぶな男やきむすめ。また、そのようなさま。

前髪を落とすという歳;江戸時代の成人への仲間入りは、数え年で15歳が基本でした。 江戸時代に入ると武家を中心に儀式の簡略化が進み、前髪を落として月代を剃ることが元服の主な儀式となりましたが、13歳で月代は剃るものの小鬢(こびん、もみ上げ)は剃らずに残す略式の元服(半元服)をし、15歳になったら本元服をすることもありました。また烏帽子(えぼし)を被る儀式がなくなってから、烏帽子親の代わりに前髪親(元服の時に前髪を剃り落とす際に立ちあう仮親)が立ち会いました。 この元服の習慣は庶民にも浸透していき、商家の丁稚が15歳を迎えると半元服と称し、額の角を入れて前髪を分けて結び、履物や服装も変え(肩上げを下ろす)ます。それから17~19歳になると本元服であり、前髪すべてを剃り落とします。 江戸時代の元服前の武家少年の髪型は「若衆髷」(わかしゅうまげ)であり、これは頭部の中央を中剃りをし、元結で髷を締めて二つ折りにした髪型です。この髪型は武士だけでなく、町民や農民にも定着していきました。

後家(ごけ);夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。やもめ。

有明行灯(ありあけ あんどん);座敷行灯の一種。 江戸時代、寝室の枕(まくら)元において終夜ともし続けた。 構造は小形立方体の手提げ行灯で、火袋または箱蓋(はこぶた)の側板が三日月形や満月形などに切り抜かれていて、書見、就寝などのとき灯火の明るさを調節できるようになっている。 黒や朱で塗り上げた風雅なもの。

 

蹴出し(けだし);着物の下着で、着物の汚れを防ぎ、足捌きをよくするために着用します。「力布」と呼ばれる晒木綿にキュプラやアセテート、ナイロンなどで作られています。方形の蹴出しを巻きつけて着るタイプのものと、スカートのようになったものがあります。巻きつけるタイプの裾よけは、力布を腰に巻き、しっかり締めることで、体型補正になり、腰の部分がすっきりとします。力布に襦袢地を縫い合わせてあるものは、「うそつき襦袢」として襦袢代わりにして、気軽な着付け用にも使えます。関東地方では、「蹴出し(けだし)」、関西地方では、「裾除け(すそよけ)」とよばれる。

常盤御前(ときわごぜん);(保延4年(1138年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも。
 治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後であった(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。 常盤について、その後の詳細は分かっていない。
 右図、「常盤御前」 豊国画

長襦袢(ながじゅばん);長襦袢は、肌襦袢と同様に和装下着の一種であり「肌襦袢と着物の間」に着用します。 肌襦袢は肌着やインナーのイメージですが、長襦袢はジャケットの下に着用するブラウスのイメージです。 着物を汚れから守る役割に加えて、長襦袢は着物を着用したときの衿や袖口から見えるため、コーディネートアイテムのひとつでもあります。 長襦袢には半衿を縫い付けて、着物姿の衿元をより美しく見せる役割もあります。素材も、静電気が起きやすいものや通気性のよくないものなどは着心地を大きく左右するため、注意が必要です。長襦袢は、対丈(着たときに足首が見えないくらい長さ)に仕立てます。

金襴(きんらん);紋織物の一種。綾(あや)、繻子(しゅす)、琥珀(こはく)などの地に緯糸(よこいと)に金糸を用いて模様を織り出したもので、模様の部分だけ金糸を織りこんで絵緯(えぬき)にしたものと、地を金糸で織り、模様を地緯(じぬき)(地の色を抜いて模様を表す)にしたものがある。地質は絹が多いが、綿や交織もある。おもに帯、袋物、表具地、能衣装などに用いる。もとは中国から輸入されたが、桃山末期から西陣でも織られるようになった。古いものは名物裂(ぎれ)として茶人に珍重された。なお金糸の代りに銀糸を用いたものは銀襴という。

 

 写真、金襴の一部

(かみしも);「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組合せで成り立ち、それらを小袖の上から着る。その多くは肩衣と袴を同色同質の生地で仕立て、肩衣の背と両胸、袴の腰板の四か所に紋を入れている。上(肩衣)と下(袴)を一揃いの物として作る衣服であることが命名の起源である。ただし継裃(つぎかみしも)といって肩衣と袴の色や生地がそれぞれ異なるものもある。室町時代の頃に起り、江戸時代には武士の平服または礼服とされた。百姓や町人もこれに倣い式日に着用することが多かったので、現在でも伝統芸能や祭礼などにおいて用いられる。また公家においても江戸時代には継裃を日常に着用していた。当初は「上下」と表記されたが、江戸時代の内に「𧘕𧘔」と書かれるようになり、更に「裃」と合字化された。
 右写真、『義経千本桜』、「河連法眼館」の佐藤忠信(中村獅童)。歌舞伎における長裃着用の例。

長袴(ながばかま); 裾の長い袴。また、足先を覆って、裾を長く引くように仕立てた袴。近世の素袍(すおう)、大紋(だいもん)、長上下(ながかみしも)などの礼服に着用した。
 「長袴」と呼ばれる袴は、当時の武士の正装(礼装)の一種。殿中では走ってはならず、刀を抜くことは切腹にあたる重罪、謀反・刃傷沙汰を防ぐために、殿中差しと呼ばれる短い刀を差し、長袴をはいて歩きにくくしていた。それと同時に長袴は戦意のないことを表すものでもあった。 この長袴のために殿中では自分の袴でつまづいたり、他人の袴を踏んでしまったりという苦労は絶えなかったという。ちなみに忠臣蔵において浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたのは、殿中差しと長袴のためと考えられている。長袴の浅野に対して、吉良は「狩衣」という衣装で逃げやすかった。

武田勝頼(たけだ かつより);(天文15年(1546年)-天正10年3月11日(1582年4月3日)。享年37)右絵図。戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第二十代当主。 通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
 強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝と正室の北条夫人とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。

十次郎(じゅうじろう);武智(明智)十次郎:浄瑠璃・絵本太功記。記時代物 近松柳ら合作。1799(寛政11)年初演。十段目「尼ヶ崎の段」通称太十(たいじゅう)に登場の光秀長男十次郎。
 本能寺で主君を討った光秀が、尼ケ崎の閑居にひそむ宿敵久吉をねらって竹槍を突き入れた。しかしそこにいたのは光秀の母。身替りに竹槍を胸に受けた母は、息子を主殺しの人 非人と責めたてて息を引き取る。戦場で深手を負って戻った光秀の息子十次郎も絶命。 親と子を一時に失った光秀。逆賊非道の報いは重い。

故郷へは錦を飾れ;立派な仕事を成し遂げ名声を得て故郷へと帰ることを言います。「錦」は金糸や銀糸などで華やかに織り込まれた絹織物のことを指しています。成功した者が豪華な衣服を着て故郷へ帰るという意味。
 [由来]
 「梁書―柳(りゅう)慶(けい)遠(えん)伝」に出て来ることばから。六世紀初め、南北朝時代の中国でのこと。梁(りょう)王朝を開いた武帝は、大臣の柳慶遠をとても信頼していました。柳慶遠が出身地の中国西部の長官として赴任するときには、「そなたが『錦を衣きて郷きょうに還かえる(豪華な衣服を着て故郷へと帰る)』ことになったから、私は西の方の政治については何の心配もない」と言って送り出したということです。日本では、ふつうは「故郷へ(に)錦を飾る」の形で使われます。



                                                            2022年4月記

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