落語「故郷へ錦」の舞台を行く 桂米朝の噺、「故郷へ錦」(こきょうへにしき)より
■伯父(おじ);父・母の兄弟。また、おばの夫。父・母の兄には「伯父」、弟には「叔父」と書く。
■甥(おい);兄弟姉妹の息子。 姪(メイ)=兄弟姉妹の娘。
■一粒種(ひとつぶだね);(大切にしている)ひとりっ子。
■恋患い(こいわずらい);恋の病。恋愛の情にとりつかれて心身が病気にかかったようになった状態。落語・芝居・小説等の題材となる。
■オボコイ(おぼこい);まだ世間のことをよく知らないために、すれていない男子や娘。うぶな男やきむすめ。また、そのようなさま。
■前髪を落とすという歳;江戸時代の成人への仲間入りは、数え年で15歳が基本でした。
江戸時代に入ると武家を中心に儀式の簡略化が進み、前髪を落として月代を剃ることが元服の主な儀式となりましたが、13歳で月代は剃るものの小鬢(こびん、もみ上げ)は剃らずに残す略式の元服(半元服)をし、15歳になったら本元服をすることもありました。また烏帽子(えぼし)を被る儀式がなくなってから、烏帽子親の代わりに前髪親(元服の時に前髪を剃り落とす際に立ちあう仮親)が立ち会いました。
この元服の習慣は庶民にも浸透していき、商家の丁稚が15歳を迎えると半元服と称し、額の角を入れて前髪を分けて結び、履物や服装も変え(肩上げを下ろす)ます。それから17~19歳になると本元服であり、前髪すべてを剃り落とします。
江戸時代の元服前の武家少年の髪型は「若衆髷」(わかしゅうまげ)であり、これは頭部の中央を中剃りをし、元結で髷を締めて二つ折りにした髪型です。この髪型は武士だけでなく、町民や農民にも定着していきました。
■後家(ごけ);夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。やもめ。
■有明行灯(ありあけ あんどん);座敷行灯の一種。 江戸時代、寝室の枕(まくら)元において終夜ともし続けた。 構造は小形立方体の手提げ行灯で、火袋または箱蓋(はこぶた)の側板が三日月形や満月形などに切り抜かれていて、書見、就寝などのとき灯火の明るさを調節できるようになっている。 黒や朱で塗り上げた風雅なもの。
■蹴出し(けだし);着物の下着で、着物の汚れを防ぎ、足捌きをよくするために着用します。「力布」と呼ばれる晒木綿にキュプラやアセテート、ナイロンなどで作られています。方形の蹴出しを巻きつけて着るタイプのものと、スカートのようになったものがあります。巻きつけるタイプの裾よけは、力布を腰に巻き、しっかり締めることで、体型補正になり、腰の部分がすっきりとします。力布に襦袢地を縫い合わせてあるものは、「うそつき襦袢」として襦袢代わりにして、気軽な着付け用にも使えます。関東地方では、「蹴出し(けだし)」、関西地方では、「裾除け(すそよけ)」とよばれる。
■常盤御前(ときわごぜん);(保延4年(1138年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。
阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも。
■長襦袢(ながじゅばん);長襦袢は、肌襦袢と同様に和装下着の一種であり「肌襦袢と着物の間」に着用します。
肌襦袢は肌着やインナーのイメージですが、長襦袢はジャケットの下に着用するブラウスのイメージです。
着物を汚れから守る役割に加えて、長襦袢は着物を着用したときの衿や袖口から見えるため、コーディネートアイテムのひとつでもあります。
長襦袢には半衿を縫い付けて、着物姿の衿元をより美しく見せる役割もあります。素材も、静電気が起きやすいものや通気性のよくないものなどは着心地を大きく左右するため、注意が必要です。長襦袢は、対丈(着たときに足首が見えないくらい長さ)に仕立てます。
■金襴(きんらん);紋織物の一種。綾(あや)、繻子(しゅす)、琥珀(こはく)などの地に緯糸(よこいと)に金糸を用いて模様を織り出したもので、模様の部分だけ金糸を織りこんで絵緯(えぬき)にしたものと、地を金糸で織り、模様を地緯(じぬき)(地の色を抜いて模様を表す)にしたものがある。地質は絹が多いが、綿や交織もある。おもに帯、袋物、表具地、能衣装などに用いる。もとは中国から輸入されたが、桃山末期から西陣でも織られるようになった。古いものは名物裂(ぎれ)として茶人に珍重された。なお金糸の代りに銀糸を用いたものは銀襴という。
写真、金襴の一部
■裃(かみしも);「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組合せで成り立ち、それらを小袖の上から着る。その多くは肩衣と袴を同色同質の生地で仕立て、肩衣の背と両胸、袴の腰板の四か所に紋を入れている。上(肩衣)と下(袴)を一揃いの物として作る衣服であることが命名の起源である。ただし継裃(つぎかみしも)といって肩衣と袴の色や生地がそれぞれ異なるものもある。室町時代の頃に起り、江戸時代には武士の平服または礼服とされた。百姓や町人もこれに倣い式日に着用することが多かったので、現在でも伝統芸能や祭礼などにおいて用いられる。また公家においても江戸時代には継裃を日常に着用していた。当初は「上下」と表記されたが、江戸時代の内に「𧘕𧘔」と書かれるようになり、更に「裃」と合字化された。
■長袴(ながばかま); 裾の長い袴。また、足先を覆って、裾を長く引くように仕立てた袴。近世の素袍(すおう)、大紋(だいもん)、長上下(ながかみしも)などの礼服に着用した。
■武田勝頼(たけだ かつより);(天文15年(1546年)-天正10年3月11日(1582年4月3日)。享年37)右絵図。戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第二十代当主。
通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
■十次郎(じゅうじろう);武智(明智)十次郎:浄瑠璃・絵本太功記。記時代物 近松柳ら合作。1799(寛政11)年初演。十段目「尼ヶ崎の段」通称太十(たいじゅう)に登場の光秀長男十次郎。
■故郷へは錦を飾れ;立派な仕事を成し遂げ名声を得て故郷へと帰ることを言います。「錦」は金糸や銀糸などで華やかに織り込まれた絹織物のことを指しています。成功した者が豪華な衣服を着て故郷へ帰るという意味。
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