落語「てれすこ」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「てれすこ」(てれすこ)


 

 有る所で珍しい魚が捕れた。漁師達が奉行所に持ち込んで名称を聞いたが、専門家の漁師が分からないのにお役人が解るはずが無い。解らないで突っ返す訳にはいかないので、魚拓をとって町町の辻に張り出した。『この魚の名が判る者は、役宅に届け出よ。褒美として金壱百両使わすもの也』と言う高札が立った。これが評判になり、近在から人が押し寄せる有様。
 多度屋茂兵衛と言う男が魚の名を知っていると申し立てた。現物を見てから、「これは、『てれすこ』でございます」、「ん?・・・『てれすこ』?」。違っているのではないか、とは言えない。役人だって解らないのだからなんて言ったってかまわない。例えば「サンタクロース」だって「WC」だって名前を言えば良いのです。怪しいと思ったが、咎める訳にも行かず、100両持たせて帰した。

 この話を奉行に伝えると、少し考えていて、「この魚を干してみよ」と仰せ。干すと大きさも小さくなって趣も変わり、てれすこに似ない魚になった。『この度も珍魚が捕れた。この魚の名が判る者は、役宅に届け出よ。褒美として金壱百両使わすもの也』と、前と同じような高札を出した。人だかりがして大騒ぎ。
 また、多度屋茂兵衛が現れ、その名を知るという。聞けば『すてれんきょう』だと言う。「先日は『てれすこ』と申したその魚を干し上げたものが、どうして名が変わるのだ。上(かみ)を偽る犯罪人だ。入牢(じゅろう)を申し付ける」、と褒美どころかお縄を頂戴してしまった。

 奉行所においてお裁きが始まった。世にいう「てれすこ裁判」。茂兵衛さんやつれきって奉行の前のお白洲(おしらす)の上に・・・。「多度屋茂兵衛、その方、『てれすこ』と申せし魚を、また『すてれんきょう』と申し、上を偽る不届きやつ。重き咎にも行うべきところなれど、上のお慈悲をもって打首申しつくる」 と判決が下った。その上「最後に何か望みがあれば、一つは叶えてつかわす」というので、茂兵衛うなだれて 「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」。
 かみさんはやせ衰えた姿に茂兵衛が驚いてようすを聞くと、「亭主の身の証が立つようにと、火物断ちをしていたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをいただいていた。そのため痩せ衰えてしまった」と言う。誠に貞女です。「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。 もう死んでいく身、思い残すことはないが、ただ一つ言い残しておきたい。この子供が大きくなったのち、決して『イカ』の干したのを『スルメ』と言わせてくれるな」 と遺言をした。奉行が出した判決には異議を唱えられなかった当時の、男の機転であった。
 これを聞いたお奉行が、膝を叩き、「多度屋茂兵衛、言い訳は立った。即刻無罪を言い渡す」、
「アリガトウございます」。スルメ一枚で助かったんですから・・・。勿論助かるはずです、おかみさんが火物(干物)断ちをしました。 

 



ことば

民話がルーツのとんち噺
 土壇場で口をついて出た苦し紛れの頓知で、危うく命が助かる噺ですが、類話は各地の民話にあります。 地方によって、最初のでたらめな魚名(てれすこ)は「きんぷくりん」「ばばくろう」、二度目(ステレンキョウ)が「かんぷくりん」などと変るようです。 「てれすこ」は実は何のことはなく、「テレスコピョ」つまりテレスコープ、望遠鏡のこと。「ステレンキョウ」は、立体メガネのことだという説もありますが良く解りません。 直接の原話は、安楽庵策伝著で寛永5(1628)年成立の笑話本「醒睡笑」巻六「うそつき」第二話です。ここでは、舞台が津の国(摂津)兵庫浦。男がとがめられ、「無塩(鮮魚)のときはほほらほ、今はさがり(干からび)なのでばくくらく」と言い訳するのがオチになっています。

 友人同士で話題が盛り上がり、これはAだ、いやBだ、ひょっとするとCかも・・・。何てこと良くあります。最近はスマホで検索掛けると回答が出てきますが、それでも??の時は、私はよく言うのです・・・、「黙ってしまいなさい」、とは言いません。「皆、解らないのだから、言い切った方が勝ちだよ」。

 円生十八番は上方ダネ 元々は上方落語で、大阪の五代目金原亭馬生が得意にしていました。故・桂米朝も演じていました。東京では戦後、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌がよく演じましたが、二人の没後は六代目円生の一手専売になりました。円生は場所を明確にしていませんが、漁業の盛んな地方で奉行がいるから、長崎だろうというので、そのものずばり「長崎の代官」の別題で演じられることもあります。

火物断ち;願掛けの時一定期間、または満願まで、火で煮、または焼いて料理した食物を断ち、願掛けをすること。蕎麦粉を水で溶いて食べても、消化吸収されません。火を通さなくても食べられる物は、刺身、果物、くるみやシイの実などの木の実、野菜でもサラダになる物は塩を掛けて食べられますし、高価だった鶏卵も生で食べられます。また、断ち物には飲食物、茶断ち・塩断ちなどもあります。志ん朝は亡くなるまで「鰻断ち」をしていたと言い、食べずに亡くなってしまいました。
 断ち物は大変で、円生は酒を断ったことがあったが、お客さんに誘われて事情を話し、食事に行ったが、お酒も入ってヘベレケになってしまった。翌朝、金比羅さんに謝りに行って、「3年の約束を6年にするから、夜だけは飲ませてくれ」とお願いしてきた。今は夜ならお酒はかまいません。と噺の中で言っていますが・・・。

お慈悲をもって打首;お慈悲をもらっても死刑は死刑です。江戸の死刑には六つあって、重い方から、
鋸挽(のこぎりびき) 首だけ出した状態で生き埋めにし、首を竹の鋸で挽いた後、磔。
(はりつけ) 公開の刑場で十字に組んだ柱に縛り、槍で両脇の下から反対の肩へ突いて殺す。
獄門(ごくもん) 牢屋敷で斬首(ざんしゅ)後、公開の刑場で首をさらし、遺体は刀の試し切りにする。
火罪(かざい) 放火犯に適用、公開の刑場で柱に縛り、薪で焼き殺す。
死罪(しざい) 牢屋敷で斬首、遺体は刀の試し切り。
下手人(げしゅにん) 牢屋敷で斬首、遺体は親族に渡され、葬儀、埋葬が許される。
付加刑として、家財没収や裸馬で江戸市中引き回し、処刑の前に人通りの多い所で晒されたりします。

 非公開の場(江戸では小伝馬町の牢屋敷内)で斬首です。公開の場で無いからお慈悲で・・・、と言っていますが。スルメ1枚で首が繋がろうとは。

 上図;天保11年子年3月「北御番所絵図面」(北町奉行所) この絵図面は奉行所部分のアップです。
 屋敷は公務(奉行所)と奥が私邸になっていた。中央下が表門で執務月は解放され、受け付けない月は閉じられていた。左右に潜り戸があって左は囚人用、右は訴人用で夜もカギは掛かっていなかった。門を入ると玄関までは敷石が有り左右には小砂利敷きです。左の白洲入り口を入ると、お裁きの場所で白洲がある。

奉行所(ぶぎょうしょ);江戸時代には色々な奉行所が有りましたが、ここで言う奉行所は町奉行のことです。
 町奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行、長崎奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。

高札(こうさつ);法度・掟などを記し、また、さらし首・重罪人の罪状を記し、人目をひく所に高くかかげた板札。立札。ここに珍魚の札が立ったのです。この高札を立てておく場所を高札場と言います。

右図;熈代照覧(きだいしょうらん)より日本橋南詰めにあった高札場。画面の左側に高札が掛かっています。

イカとスルメ;イカを干すとスルメになります。干したイカとは言いません。やはりスルメはスルメです。イカの全世界漁獲量の半分は日本で消費されます。それほどポピュラーな海産物なのです。

 

 イカとスルメ

 同じような物で、カドという魚を干すとニシンとなります。乾燥させ身を二つに裂いて食べることから、「二身(ニシン)」の意とする説、二つに割る様から「妊身(ニシン)」の意とする説、盆や正月に両親の長寿を祈って食べる魚であったことから「二親(ニシン)」の意とする説などがある。ニシンそのものは正式には「カド(鰊)」といい、「カド」は口先が角ばっていることからとする説やアイヌ語に由来する説などがある。その「カドの子」が「数の子」となった。
 他にも?豆腐を冷やすとやっこ。カツオを半生にするとナマリ。馬が肉になると桜。イノシシが肉になるとボタン。
 ひと手間を加え加工すると名が変わるのは多く有ります。イカを内臓と混ぜた物を塩辛。ボラの卵を干すとカラスミ。ナマコの腸を取り出したのがコノワタ。鮎の塩辛をウルカ。等々多く有ります。あれ~、どれも酒の肴です。



                                                            2015年9月記

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