落語「鶴満寺」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「鶴満寺」(かくまんじ)より
■鶴満寺(かくまんじ);大阪市北区長柄東一丁目3-12。天台宗系のお寺で、奈良時代の創建と伝えられ、河内・西中島と移転して、江戸時代中頃の寛延年間(1750年代のころ)に、この地に順次再興されたん。ご本尊は阿弥陀如来。重要文化財(国指定)の銅鐘(朝鮮鐘)(明治42年9月21日指定)があり、太平十年(1030)二月の銘がある。その再興当時に植えられ始めた枝垂桜は、たちまち評判となって、桜の名所になった。境内には腰掛け茶屋も出て、随分に賑わった。境内は桜の名所として知られ、樹下に各地の巡礼所の観音仏を安置して百体観音と称し、崇敬を集めていたが、明治18年(1885)の大洪水で流されてしまった。
■大坂造幣局の花見;大阪市北区天満1−1−79、本局の桜(2015年の通り抜け)
この年の花「一葉」
大阪市北区の大川沿いに位置する本局は藤堂家大坂屋敷の土地にあり、同家が植栽していた桜樹木約120品種、約400本が造幣局へ引き継がれている(2015年現在、132品種、350本)。造幣局長遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年に一般公開を始めて以降、大阪大空襲で多くを焼失したが職員らが蒐集し多品種の桜並木が復元され、日本さくら名所百選に選定されるなど毎年4月中旬から下旬の開花時期に春の伝統行事として賑わう。夜間照明により日没後も夜桜鑑賞ができる。桜の品種は「ソメイヨシノ」が特段著名だが、ほかに一品種を「今年の花」として1975年より毎年紹介している。
太平洋戦争空襲被災の1943年から1946年以外は毎年開催され順路なども無く自由に鑑賞できたが、1967年に観客の1人が転倒したことから将棋倒しとなり、女性1人が死亡し27人が負傷。これを切っ掛けとして、翌1968年から川崎橋方向の南側ゲートから入場し桜宮橋方向の北側ゲートへ抜ける一方通行(「桜の通り抜け」)となった。2011年は東日本大震災に際し内外での開催反対意見を抑え、震災の電力危機により夜桜ライトアップを取り止めた縮小規模で昼間開催され、開催7日間に一千万円余が募金箱へ集まった。
北に行くと鶴満寺さん、南に行けば大阪城址公園があります。
■大阪城公園の花見;公園内には梅林をはじめ樹木が多く植えられ、花見シーズンには桜や梅の名所となっている。濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩おう姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。日本国外からの観光客も多い。日本さくら名所百選に選定されている。
■東京・千鳥ヶ淵公園(ちどりがふち_こうえん);千鳥ヶ淵緑道は、皇居西側の千鳥ヶ淵に沿う全長約700mの遊歩道で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑入口から靖国通りまで伸びています。
千鳥ヶ淵緑道のソメイヨシノやオオシマザクラなど約260本の桜は遊歩道を歩く人の頭上に咲き、まるで桜のトンネルの中を歩いているような体験ができる、全国的にも有名な桜の名所です。観桜期には、日本全国から百万人以上の人が訪れます。
■東京・上野恩賜公園(うえの_おんしこうえん);江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。その為、将軍の菩提所であったので、ここの敷地内ではドンチャン騒ぐことが出来ず、また、夕方には門限があって花見客は閉め出されてしまった。
■日本さくら名所100選(にほんさくらめいしょひゃくせん);1990年に公益財団法人日本さくらの会の創立25周年記念として選定、建設省、運輸省、環境庁、林野庁、全国知事会、財団法人国際花と緑の博覧会協会の後援によって行われたものである。各都道府県から最低1か所を選ぶなど、9つの選定基準によって選ばれた。
他にも日本名所100選として、
■雪月花(せつげっか);雪と月と花。四季おりおりの好いながめ。つきゆきはな。
歌麿の三部作「雪月花」。 上より深川の雪。品川の月。吉原の花。
■百文と一朱(100もん_いっしゅ);1両は4分=16朱。1両=(江戸初期公定相場)4貫=4000文、その後5貫とインフレになる。1両が8万円とすると、1朱は5000円。100文=2000円(4貫時)、また100文=1600円(5貫時)、となります。寺男の心付けとしたら少なくない金額です。その上に1朱も貰って、酔いつぶれるほど呑めれば言うこと無い話しです。
■半刻(はんとき);1刻は約2時間、半刻は約1時間。
■毛氈(もうせん);獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦などを加えて一種の縮絨(シユクジユウ)を施し、各繊維を密着させて製する敷物用毛織物。(広辞苑)。 上図、吉原の花で、通りの床几に腰掛けている花魁が敷いているのが緋毛氈。現代ではお雛様の段飾りの布や、寄席で使う高座の緋毛氈があります。
■大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん);大久保 忠教(おおくぼ ただたか)。永禄3年(1560)、三河国上和田(愛知県岡崎市)に誕生。徳川氏に仕え、17歳のときに兄・忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。
天正18年(1590)、小田原征伐の後、主君・徳川家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは 秀忠の軍に同行し第2次上田城攻めに加わった。 このころ、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが忠佐の嫡子・忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えて後を継がせようとしていた。しかし忠教はこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。
続けて忠隣が失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も二代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、三代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。
寛永12年(1635)ごろから常陸国 鹿嶋に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639)に80歳で死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
■『沖の暗いのに白帆が・・・』;「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国みかん船」。紀伊国屋文左衛門の戯れ歌。紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、
江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。
また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。
晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734)に死去したとされる。享年66。紀伊國屋は二代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退してしまった。
二男は宝永2年(1705)、程ヶ谷宿本陣六代苅部清兵衛の入り婿になり、持参金で苅部家の借財の返済に充てた。八丁堀に広大な邸を構え、奈良屋茂左衛門勝豊との吉原における豪遊の逸話が伝わっている。
■『花の色は うつりにけりな いたづらに・・・』;本歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
小野小町(9番) 『古今集』春・113
■小野小町(おののこまち);(生没年不明、9世紀ごろ)は平安時代のはじめ、文徳、清和天皇の頃の人で、女官として宮廷に仕えていたと伝えられています。
参議小野篁(おののたかむら)の孫であるとも、小野良貞の娘であるとも言われていますが、小野小町は和歌にもすぐれ、紀貫之が選んだ六歌仙や、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりにも数えられていて、優れた歌人でもありました。
■百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ);100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。
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