落語「毛氈芝居」の舞台を行く
   
 



 古今亭志ん生の噺、「毛氈芝居」(もうせんしばい)より


 


 この村はまだ芝居という物を観たことも無く、芝居が解りません。地方に出ていて、ひとつ観せてやって欲しいと、その村から頼まれた。
 そんな所では、客は入らないだろうからと言うと、私が芝居を買いますからと言うので山奥の村までやって来た。出し物は『蔦紅葉宇都谷峠』(つたもみじ うつのやとうげ)の文弥殺しの場をやることに決まった。

 

 客席には村人は勿論、御領主様も家来を連れてやって来ました。

 

 幕が開くと宇都谷峠で、盲人の文弥の手を引きながら伊丹屋十兵衛が舞台の中程に来ます。 

 (ここから芝居がかりになって、山の静けさを太鼓が表しています。舞台中央に切り株)
十兵衛 「文弥殿、ここにお掛けなさい」、

文弥 「何から何までお世話になります」、

十兵衛 「あの護摩の灰も目先が利かない奴だな~。盲の按摩の持ち金を狙うなんて・・・」、

文弥 「旦那様方(だんなさまがた)の御身分ではわずかな金でござりましょうが、私の身にとりましては、一生働いても貯めることが出来ない、百両という金です」、

十兵衛 「おッ 大層持っていなさるな~。十兵衛の話を聞いてはくれないか」、
文弥 「大恩を掛けてくだすった旦那様、叶う事なれば・・・」、
十兵衛 「その百両、貸してはくれないか。その驚きはもっともだが、十兵衛の大恩あるご主人が百両無いと首に縄、京大坂と回ったが出来ぬ金、なんと、貸してはくれまいか」、
文弥 「旦那様のご加護で、先の宿で護摩の灰に取られるところを助けていただいた。貸してもイイのですが、貸す事が出来ない訳を聞いてください。
 三歳の年(とし)姉さんが私を背負いトンボ捕り、モチ竿を振り回したのが目に入り、それで盲になりました。眼の見えぬ私(わし)を不憫(ふびん)に思われて母や姉の艱難苦労(かんなんくろう)、この百両の官金も姉が苦界(くがい)へ身を沈め、私にくれたる身(み)の代金(しろきん)。官位もとらず人に貸したの盗まれたのと言うては江戸へ帰られませぬ。もし十兵衛さま、お聞きわけ下さりまして、どうぞお許し下さりませ」、
十兵衛 「聞けば聞くほど哀れな話。文弥殿はここから坂を下って岡部宿に私は戻って鞠子の宿へ下ります。ここで別れますから気を付けて・・・」、
文弥 「旦那様、もう行かれてしまったのか。・・・、 ぎゃぁ~、十兵衛殿、私を殺して金を取るのかぁ~」、
十兵衛 「殺す気は無いけれど、金には換えられね~。丁度所も宇都谷峠、許してくだされ文弥殿」。
 これから、トドメを刺して百両の金を奪うところです。

 

 三代豊国筆 「蔦紅葉宇都谷峠」 安政3年 文弥殺しの場。

 

 これを最前から見ていた御領主様、この人は初めて芝居を観るので、何も解らない。

 「これ、なんじゃ、あいつは・・・。我が領分に入って座頭を殺し百両盗むとはッ。不届きなやつだ。あのものを召し捕れッ」。十兵衛、召し捕らえられてしまった。

 「頭取、大変だよ。だからこんなとこに来るのはヤダと言ったんだ。座頭殺しで、十兵衛縛られてしまったよ」。
 「困ったね。何かお気に障りましたか?」、「座頭を殺し金を奪った者は見逃せん」、「これは芝居なんです」、「芝居? 芝居とは何なんだッ」、「一つの芸です」、「芸とは何だッ」、「殺された文弥は死んではおりません」、「黙れ。トドメを刺したではないか」、「黒い着物を着た黒子がいまして、毛氈で囲いまして、文弥は毛氈と一緒に歩いて舞台から引っ込んでしまったんです。ただ今、生きております。文弥をやった役者を連れてきなさい」、「おッ、不思議なことも有るものだなぁ~」、「毛氈を掛けて死んだ者を楽屋に運べば生き返るのです」、「ははぁ~、毛氈で囲えば生き返るか~。う~ん、三太夫、余の先祖は石橋山の戦いで討ち死にしたが、その節は毛氈は無かったものか」。

 


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ことば

 

噺のなりたち;落語ネタから歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじ うつのやとうげ)」が生まれ、その歌舞伎を落語の中に取り入れたのが、この「毛氈芝居」です。
 
 「蔦紅葉宇都谷峠」は金原亭馬生の人情噺を原案として二代目河竹新七(黙阿弥)が書いた世話物で、黙阿弥はこれを四代目市川小團次に当て書きしています。
  「因果同士の悪縁が、殺すところも宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血汐の紅葉血の涙、この引明けが命の終わり、許してくだされ文弥殿」の名科白で有名になった作品である。「許してくだされ何々殿」は当時の流行語にもなった。

  

左、三代目豊国筆 「伊丹屋十兵衛」「座頭文弥」 演劇博物館蔵。  右、歌川国貞筆 「踊形容外題尽 蔦紅葉宇都谷峠 第壱番目六まく目 宇都谷峠座頭ころしの場 盲人文弥 伊丹屋重兵衛 提婆の仁三」「安政三丙辰年九月大吉日」  演劇博物館蔵。

 

 歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠」について、『あらすじ

  貧しい家の娘、お菊は弟の文弥が幼い頃、石の上に誤って落としてしまい失明させてしまう。その償いにお菊は吉原へ身売りして、作った百両の大金を文弥にもたせ、京へ上らせて座頭の官位を取らせようとする。
  途中の鞠子宿で胡麻の灰、提婆の仁三(だいばの にさ)は文弥の大金を狙うが、同宿の伊丹屋十兵衛に取り押さえられる。文弥と十兵衛が宇都谷峠まで来たところで、十兵衛は初めて大金のことを知り、自分の主人のために借金を申し入れするが断られてしまう。一度は考えを改めた十兵衛だったが、結局は文弥を殺して金を奪ってしまう。だが、その一部始終を見ていたのが辻堂に身をひそませていた仁三であった。
  実は十兵衛の主人尾花六郎左衛門と文弥の父小兵衛はお家騒動をめぐる旧敵同士。しかも、十兵衛の借金はもとはと言えばお家騒動に絡む金子であった。そんな因果関係をも知らず、十兵衛は百両を元手に江戸で居酒屋を開くが、座頭の亡霊が十兵衛とその妻を悩ませるようになり、さらに落とした煙草入れをネタにして提婆の仁三による強請(ゆすり)が始まる。
  十兵衛は口封じに女房を手に掛けたあと、仁三を鈴ヶ森へ誘い出して殺害するが、かけつけた古今(こきん)や彦三から事実を知り、因果の恐ろしさに切腹して果てる。

 

  この噺で取り上げられているのは、十兵衛が按摩の文弥を殺す段です。志ん生や今輔、歌丸は、歌舞伎役者の声色を使って芝居のように噺を演じています。

 

座頭(ざとう);盲人。当道座に属する剃髪の盲人の称。中世には琵琶法師の通称ともなった。近世には琵琶・箏・三味線などを弾じて、平曲などの語物を語り、歌を歌い、一方で按摩・鍼治・金融(座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた)などを業とし、官位は実際上売買された。
 彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。
落語「柳の馬場」に座頭のことを詳しく記述しています。
 文弥の台詞を借りると、「文弥がわざわざ京までまいりますは、今出川の惣録で今一老(いまいちろう)を勤めまするは、この文弥が師匠にて、もし官位でも取るならば五十や七十の金ならば貸してやろうと言わっしゃるゆえ、この百両に五十両借りて官位を取るつもり。検校千両(けんぎょうせんりょう)、百五十両で取る官位は座頭(ざとう)でございます」。

 

宇津ノ谷峠(うつのやとうげ);宇都谷峠は芝居で使われる架空の峠ですが、宇津ノ谷峠をイメージした峠です。静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠。国道1号・旧東海道が通る。標高151m。 中世から交通の要衝として和歌にも詠われ、現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして平成22年(2010)2月22日に国の史跡「東海道宇津ノ谷峠越」に指定された。
右図;東海道五十三次「岡部
」(宇都谷峠) 広重画 クリックすると大きくなります。
 江戸時代に、宿場・参勤交代の制度とともに東海道は整備された。宇津ノ谷峠周辺にも江戸よりに鞠子宿、上方よりに岡部宿が置かれ、峠付近にも間宿(あいのしゅく=正規の宿駅間に設けられた旅人休憩の宿。宿泊は禁止されていた)や商店が立ち並んだ。
 落語「慶安太平記」にも出てくる、昼なを暗い峠で、山賊や物取りが出るのは、朝飯前。

 

■旅興行(たびこうぎょう);地方を巡回してする興行。相撲では地方興行と言い、歌舞伎、見世物、演劇、落語でも地方回りをします。地方でもそのセンスが無いところで行うには、相当な覚悟がいり、ドサ回りとも言われます。

 

 歌舞伎では、歌舞伎等の一座(劇団)が本拠地の都市を離れ、地方を巡回して興行すること。巡業、旅芝居ともいい、略して単に〈旅〉ということもある。地方都市で一座を迎え興行のすべての責任者となる者を請元(うけもと)といい、土地の顔役などが引き受けていた。旅興行は江戸時代から行われていて、多くは都会では不入りになる夏場に旅に出た。現在でも夏休み等をねらっての巡業が多く、また、移動芸術祭の秋巡業も毎年行われている。


 軽演劇や戦後の一時期ブームを招いた女剣劇は、その興行形態が資本投下による大劇場公演と違って小規模で、団体客を動員することなく、盛場に集まる客を対象にするといった興行本来の形に固執したために、興行街がその性格を変えていったことにつれて、斜陽化の道をたどり、現在はほとんど消滅してしまった。
 一方、長い伝統をもつ〈旅芝居〉と称する移動劇団による大衆演劇活動があり、移動する地域を限定することによって根強い人気を保っている。関東の梅沢劇団、劇団わかば、あすなろ劇団、演美座、劇団ママ、関西の大日方満(おおひなたみつる)劇団、美里(みさと)英二劇団、嵐劇団、九州の片岡長次郎劇団などが、東京、川崎、大阪、神戸、坂出、久留米、熊本などに点在する定打ちの小劇場、ヘルスセンターを巡演し活動を続けている。

 

 志ん生もマクラで言っています。
 ・ 芝居で殺された役者は黒子が持って来た毛氈に隠れて楽屋に引っ込みます。田舎芝居になると死んで動けませんが、舞台の裏は田んぼで蚊が飛んでいます。蚊に刺されても動けませんので、早く毛氈が来ないかと、切ない思いをすることが有ります。
 ・ 東京で食えなくなってくると、友達を誘って旅に出ます。汚い小屋などでもやりますが、楽屋にイタズラ書きがしてあって、「この小屋は牛と狐の泣き別れ もうコンコン」。
 ・ 旅の御難でもいろいろ有って、高松に行ってたとき料理屋からお座敷が掛かった。高松一の料亭で、地元の一流芸者衆がズラリと並んだ婚礼だった。当然噺をするものだと思ったら、踊りを所望された。断ることは出来ないので曲を聴いたら『鶴亀』だと言う。鶴亀なんて踊ったことが無いが、曲が始まったので、それに合わせて踊った。何を踊ったのかわからないし、三味線や唄の芸者さん達も、東京から来た芸人だから間違ってはいけないと、下を向いて一生懸命だった
。「見事でした」とお褒めの言葉を貰ったが、なにが見事なものか。
 ・ 宇和島に来たときには、踊りも踊らなければならなかった。宿で踊りを教えなさいと言われたので、教え初めて、翌日「昨日は右手を挙げたんですが、今回は左ですな」、「踊りというものはいろいろ有るんだよ」。だんだん人が増えてきて、誰に教わって居るかと聞かれ、「東京の人です」。そんな事言わなければ良いんですが・・・、見番から連絡があって、芸者衆に教えて欲しいと言われ、その晩、夜逃げをしました。
 ・ 落語を知らない所にも行きます。噺家が来たというので鉄砲を持って出て来た。だんだん聞いたらカモシカと間違えられた。

 

落語「旅の里扶持」にも、旅興行の苦しさが描かれています。

 

頭取(とうどり);銀行のボスではなく、ここでは、演劇や相撲などの興行を統轄する人。


御領主様(ごりょうしゅさま);領地の持主。荘園(しょうえん)の所有主。 江戸時代、城を持たない大名・小名。

 

護摩の灰(ごまのはい);江戸時代、道中荒し、枕さがしなどを働いた小盗賊。「胡麻の蠅」は俗称。その語源は元禄年間 (1688~1704) 高野聖と偽称し、弘法大師の「護摩の灰」と称するものを街道筋で売歩き、巧みに町家に取入って宿泊しては物品を盗み、娘をかどわかした者があったことによるといわれる。護摩化 (ごまか) す、あるいは胡麻にたかった蠅のように、良悪見分けにくいところからこう呼ばれたとの説もある。悪雲助とともに、道中で最も警戒すべきものの一つで、幕府は道中奉行に取締らせたが、根絶はできなかった。

 

百両(ひゃくりょう);貨幣の単位。10両盗むと首が飛ぶ時代の100両です。1両8万円として、約800万円。

 

苦界(くがい);遊女のつらい境遇。遊女の勤め。「苦界に身を沈める」とつかう。遊廓の境遇。
 苦界十年: (江戸時代、遊女の年季は十年を上限としたことから) 遊女の年季。転じて、遊女勤めの身の上。

 

黒子(くろこ、くろご);黒衣(くろご)といって、舞台で演技を助ける雑用係のことです。黒い衣裳を着て頭も顔も黒い布で隠(かく)しているのでこう呼びます。
  歌舞伎では、「黒は観客からは見えないもの」という暗黙のルールがあります。舞台に黒衣がいても、見えないことになるわけです。当然目立ってはいけないので、俳優や大道具の後ろに隠れたりして、できるだけ体が見えないように小さくなっています。 舞台で必要な小道具を出したり、いらなくなった小道具を片づけたり、舞台の上で衣裳の着替えを手伝ったりと、数多くの仕事があります。通常は出演している俳優の弟子がつとめます。師匠の演技のタイミングに合わせて仕事をするのです。
  雪や水中、海や川の場面では、黒衣は逆に目立ってしまいます。そこで、雪の場面では「雪衣(ゆきご)」と呼ばれる白い衣裳を、海や川の場面では「水衣(みずご)」や「波衣(なみご)」という水色の衣裳を着ます。
国立劇場の解説から。
右図:三人の黒衣が描かれている歌川国芳の役者絵「中村芝翫」。

 

毛氈(もうせん);獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦などを加えて一種の縮絨(シユクジユウ)を施し、各繊維を密着させて製する敷物用毛織物。
○毛氈をかぶる=(明和・安永頃の通言。歌舞伎で、死人になった役者を毛氈で隠して舞台から去らせることから) 不首尾になる。主人や親の手前をしくじる。放蕩して、主人や親の家を追い出される。浄、神霊矢口渡「親玉へ知れると毛氈をかぶる出入りだ」。
 (遊女が見世に出ている時、毛氈を敷いたことから) 女郎買いをして金を使う。また、金がなくなる。黄、稗史億説(クサゾウシコジツケ)年代記「それ毛氈かぶるがどら息子」。広辞苑

 

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい);小田原市南西部にある山。治承4年(1180)源頼朝が大庭景親に敗れた所。
 平安時代末期の治承4年(1180)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦い。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。

 

 目代である山木兼隆を倒しても頼朝の兵力のみで伊豆一国を掌握するにはほど遠く、平家方の攻撃は時間の問題であった。頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとしていたが、遠路のためになかなか参着してこなかった。8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出。これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。 23日、頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。 前日に三浦一族は頼朝と合流すべく進発しており、途中の景親の党類の館に火を放った。これを遠望した景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦を仕掛けることにした。闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかる。 頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
 右図:歌川国芳作、石橋山の戦いで組み合う佐奈田与一義忠と俣野五郎景久。

 

実際にも有った傷害事件、
 安政4年(1857)、肥後細川の藩士小倉力次郎が、浅草・猿若町の森田座で観劇中興奮して舞台へ飛び上がった。この時の出し物は鶴屋南北作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべい いこくばなし)」で、市川市蔵が天竺徳兵衛に扮し、母親を殺害するシーンで起こった。どんな名演技で有ったか、勤番侍の力次郎、芝居であることを忘れて徳兵衛に切りつけてしまった。幸い市蔵は浅傷だったが、止めに入った裏方2人が重傷を負って大騒ぎ、直ぐ人を走らせたので、北町奉行所から与力服部孫九郎が出役、暴れる力次郎に縄を打った。召し捕った藩士はどう処分されたかというと、重罪は幕府法で処罰して、その旨を所属藩へ通知する。が、軽罪は所属藩へ身柄を渡して処罰させる。小倉力次郎は乱心と言うことで、特に内済(和解)にしたようである。

 


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                                                           2017年12月記

 

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