---------------------------------------------
ことば
■噺のなりたち;落語ネタから歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじ うつのやとうげ)」が生まれ、その歌舞伎を落語の中に取り入れたのが、この「毛氈芝居」です。
左、三代目豊国筆 「伊丹屋十兵衛」「座頭文弥」 演劇博物館蔵。 右、歌川国貞筆 「踊形容外題尽
蔦紅葉宇都谷峠 第壱番目六まく目 宇都谷峠座頭ころしの場 盲人文弥 伊丹屋重兵衛 提婆の仁三」「安政三丙辰年九月大吉日」 演劇博物館蔵。
歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠」について、『あらすじ』
貧しい家の娘、お菊は弟の文弥が幼い頃、石の上に誤って落としてしまい失明させてしまう。その償いにお菊は吉原へ身売りして、作った百両の大金を文弥にもたせ、京へ上らせて座頭の官位を取らせようとする。
この噺で取り上げられているのは、十兵衛が按摩の文弥を殺す段です。志ん生や今輔、歌丸は、歌舞伎役者の声色を使って芝居のように噺を演じています。
■座頭(ざとう);盲人。当道座に属する剃髪の盲人の称。中世には琵琶法師の通称ともなった。近世には琵琶・箏・三味線などを弾じて、平曲などの語物を語り、歌を歌い、一方で按摩・鍼治・金融(座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた)などを業とし、官位は実際上売買された。
■宇津ノ谷峠(うつのやとうげ);宇都谷峠は芝居で使われる架空の峠ですが、宇津ノ谷峠をイメージした峠です。静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠。国道1号・旧東海道が通る。標高151m。
中世から交通の要衝として和歌にも詠われ、現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして平成22年(2010)2月22日に国の史跡「東海道宇津ノ谷峠越」に指定された。
■旅興行(たびこうぎょう);地方を巡回してする興行。相撲では地方興行と言い、歌舞伎、見世物、演劇、落語でも地方回りをします。地方でもそのセンスが無いところで行うには、相当な覚悟がいり、ドサ回りとも言われます。
歌舞伎では、歌舞伎等の一座(劇団)が本拠地の都市を離れ、地方を巡回して興行すること。巡業、旅芝居ともいい、略して単に〈旅〉ということもある。地方都市で一座を迎え興行のすべての責任者となる者を請元(うけもと)といい、土地の顔役などが引き受けていた。旅興行は江戸時代から行われていて、多くは都会では不入りになる夏場に旅に出た。現在でも夏休み等をねらっての巡業が多く、また、移動芸術祭の秋巡業も毎年行われている。
志ん生もマクラで言っています。
落語「旅の里扶持」にも、旅興行の苦しさが描かれています。
■頭取(とうどり);銀行のボスではなく、ここでは、演劇や相撲などの興行を統轄する人。
■護摩の灰(ごまのはい);江戸時代、道中荒し、枕さがしなどを働いた小盗賊。「胡麻の蠅」は俗称。その語源は元禄年間 (1688~1704) 高野聖と偽称し、弘法大師の「護摩の灰」と称するものを街道筋で売歩き、巧みに町家に取入って宿泊しては物品を盗み、娘をかどわかした者があったことによるといわれる。護摩化 (ごまか) す、あるいは胡麻にたかった蠅のように、良悪見分けにくいところからこう呼ばれたとの説もある。悪雲助とともに、道中で最も警戒すべきものの一つで、幕府は道中奉行に取締らせたが、根絶はできなかった。
■百両(ひゃくりょう);貨幣の単位。10両盗むと首が飛ぶ時代の100両です。1両8万円として、約800万円。
■苦界(くがい);遊女のつらい境遇。遊女の勤め。「苦界に身を沈める」とつかう。遊廓の境遇。
■黒子(くろこ、くろご);黒衣(くろご)といって、舞台で演技を助ける雑用係のことです。黒い衣裳を着て頭も顔も黒い布で隠(かく)しているのでこう呼びます。
■毛氈(もうせん);獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦などを加えて一種の縮絨(シユクジユウ)を施し、各繊維を密着させて製する敷物用毛織物。
■石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい);小田原市南西部にある山。治承4年(1180)源頼朝が大庭景親に敗れた所。
目代である山木兼隆を倒しても頼朝の兵力のみで伊豆一国を掌握するにはほど遠く、平家方の攻撃は時間の問題であった。頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとしていたが、遠路のためになかなか参着してこなかった。8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出。これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。
23日、頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。
前日に三浦一族は頼朝と合流すべく進発しており、途中の景親の党類の館に火を放った。これを遠望した景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦を仕掛けることにした。闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかる。
頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
■実際にも有った傷害事件、
----------------------------------------------
2017年12月記
前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ
|