落語「熊坂」の舞台を行く 五代目三升家小勝の噺、「熊坂」(くまさか) 別名「熊坂長範」より
■能の熊坂 (くまさか);五番目物。五流現行曲。作者不明。旅の僧(ワキ)が美濃(みの)国(岐阜県)赤坂の里を通ると、所の僧(前シテ)が呼びかけ、さる者の命日を弔ってほしいと庵室(あんしつ)にいざなう。そこには武具が多く備えられ、不審を述べる旅僧に、物騒な里ゆえ往来の者の難儀を救うためと語る。夜も更けると僧の姿も庵室も消えている。松陰に夜を明かす旅僧の前に、熊坂長範(ちょうはん)の亡霊(後シテ)が現れ、大長刀(なぎなた)を振るい牛若丸と戦った無念の死を仕方話に語り、回向(えこう)を願って消えうせる。現在能の『烏帽子折(えぼしおり)』の事件を旅僧の幻想として夢幻能の形で描いた曲。同装の僧が対座する前段は他の能にない特色。哀愁と豪快さの対比と同居がみごとな佳作である。
■熊坂長範(
くまさかちょうはん);生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に、7歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った。1174年(承安4)の春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次(きつじ)を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚(たん)は、義経(よしつね)モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。
《義経記》では盗賊の名を長範とせず、藤沢入道と由利太郎とし、場所は近江国鏡の宿とされる。生国は越後と信濃の境にある熊坂(現、長野県上水内郡信濃町熊坂)とも加賀の熊坂(現、石川県加賀市熊坂町)とも伝える。
右浮世絵、月岡芳年『芳年武者无類 熊坂長範 源牛若丸』
浮世絵に描かれた熊坂長範と牛若丸。1883年(明治16) 国立国会図書館所蔵。
■鬼薊(おにあざみ)梅吉;鬼坊主清吉。 黙阿弥脚本の芝居『花街模様薊色縫(さともよう あざみのいろぬい)』(当初は『小袖曾我薊色縫』。通称「十六夜清心(いざよいせいしん)」)に登場する「鬼薊(おにあざみ)の清吉」にも、実在したモデルがいたらしいです。
■廻船問屋(かいせんどんや);江戸時代、廻船を所有し物資輸送を業とした海運業者。輸送だけでなく物資の売買をも兼ねたものが多い。鎌倉、室町時代の問 (とい)
、問丸 (といまる) などに起源をもち、室町時代末期から輸送と売買とは次第に分離するようになった。江戸時代に入ると、菱垣廻船、樽廻船のように海運専業の廻船問屋も出現した。しかしなかには北国廻船 (→北前船 ) のように運賃積みによらず、北陸、東北、蝦夷の諸産物を買入れては上方で売りさばき、同時に日用品を買込んで、翌春北国に帰航するものもあり、船主は売買問屋も兼ねていた。
■鍾馗の軸(しょうきのじく);中国の「唐」第六代皇帝「玄宗」が流行病にかかり、床に伏し、高熱の中、夢に現れたのが鍾馗。鍾馗は、科拳(官僚登用試験)に失敗したことを恥じ自ら命を絶ったにもかかわらず、玄宗が手厚く葬ってくれた恩に報いるために夢に現れ、病の元である小鬼を難なく退治し、玄宗の病も治ったという故事に因み、道教の神として祀られるようになりました。
■鬼薊(おにあざみ);キク科の多年草。本州の山中に生える。茎は高さ50cm~1mになり、上部に縮れた毛や、くもの巣状の毛がある。根出葉は長さ30~60cmの楕円形で羽状に中裂し、各裂片は卵形でふぞろいの鋭い鋸歯(きょし)がある。7~9月に、紫色の筒状花を開く。総苞はねばり気がある。おにのあざみ(右写真)。
■亀五郎(かめごろう);亀五郎というのは贋金を作って斬首の刑にあった罪人。刑を執行される前に辞世として詠んだ歌だそうです。親が「亀五郎」と名づけたのは万年も生きてくれという願いをこめたものでしょう。でも、たった百両の贋金を作っただけで首がスッポン。
■両国回向院(りょうごく えこういん);東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の諸宗山無縁寺回向院。
1768年(明和5年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
南千住回向院、東京都荒川区南千住五丁目にある寺で、過去は両国回向院の別院。現在は独立して正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも。1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことに始まる。
■鼠小僧の墓(ねずみこぞう はか);時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。実際は、義賊では無く、飲む・買う・打つに使い切ってしまったと言います。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
写真、鼠小僧の墓 回向院境内。 削って良い墓は手前の白くなった墓。最初は立派な墓だったが削られ白く。
落語にも登場します。落語「しじみ売り」
■無尽講(むじんこう); 相互に金銭を融通しあう目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、はじめは無利子・無担保だったが、掛金をおこたる者があったりしてしだいに利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後も、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間に行なわれた。頼母子(たのもし)講。頼母子無尽。無尽金。無尽。
■石川五右衛門(いしかわ ごえもん);(弘治 (日本)4年(1558年)? - 文禄3年8月24日(1594年10月8日)一説には、12月12日とも)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原(小勝は七条河原と言っているが誤り)で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。素性については、色々伝説があって、どれが真実だか判っていない。右図。
■牛若丸(うしわかまる);源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。
■左馬頭義朝(さまのかみ よしとも);源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。
源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
■常盤御前(ときわごぜん);(保延4年(1138年) - 没年不詳)は平安時代末期の女性で、源義朝の側室。
阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも。
やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。
■今若、乙若、牛若(いまわか おとわか うしわか);源 義朝と常盤御前の三兄弟。
乙若、義円(ぎえん)または源 義円(みなもと の ぎえん、久寿2年〈1155年〉 - 治承5年3月10日〈1181年4月25日〉)は平安時代末期の僧侶で、源義朝の八男。
■山城国 木幡の関(こはたのせき);京都府南部宇治市の北部にある地名。京都に入る七つの街道(京都七口〈きょうとななくち)に設置された関所のことで、京都七口関の一つ。逢坂山へ通ずる要路であり、古くは宇治郡と紀伊郡とに広がる領域を指した。古くは京都市伏見区深草のあたりまでを含み、奈良街道の道筋にあたった。製茶問屋が多い。木旗。強田。関では幕府の財政的見地から、通行税を徴収し、旅人や商人などは相当の出費を覚悟しなければならなかった。その一環として犯罪人の取り調べなども行った。
■宗清(むねきよ);山城国木幡の関の関守。平 宗清(たいら の むねきよ)は、平安時代後期の武将。
歌舞伎所作事【宗清】。常磐津。奈河本助作詞。五世岸沢式佐作曲。四世西川扇蔵振付。本名題「恩愛瞔関守(おんあいひとめのせきもり)」。文政11年(1828)江戸市村座初演。顔見世狂言「貢玉雪源氏贔屓(みつぎのゆきげんじびいき)」の三立目に用いられたもの。常盤御前は関守彌平兵衛(やへいびょうえ)宗清のことばに従って自分の操と引きかえに三人の子どもの命を助けることにし、清盛の館におもむく。雪の常盤。
■伊豆に島流(いずに しまながし);鎌倉時代は、伊豆半島に流されることが多かった。江戸時代にはもっと遠方の伊豆七島全体が流罪地となっていましたが大島は本土に近すぎること、小さな離れ島は島人・流人ともに大変だということで
寛政8(1796)年に、新島・三宅島・八丈島のみになった。
常盤御前の三児は島流しにはならず、出家させられ僧侶になっています。今若、乙若、牛若を参照。小勝の間違いです。
■鞍馬山(くらまやま);鞍馬山は、京都府京都市左京区にある山で、標高584m。東を鞍馬川、西を貴船川に挟まれた尾根が南北に連なる。そこの鞍馬寺は、京都市 左京区鞍馬本町1074番地 鞍馬弘教総本山鞍馬寺。
■奥州の秀衡(ひでひら);藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第三代当主。鎮守府将軍、陸奥守。
上写真、平泉にある中尊寺金色堂。
■美濃国青墓長者の屋敷(みののくに あおはかちょうじゃの やしき);青墓の宿(岐阜県大垣市)は東国へ往来する旅人の宿場で、
当時遊女で賑わった町です。旅人の宿泊の世話をしたのが、長者とよばれる土地の豪族大炊(おおい)でした。
歌川広重画 「木曽街道六十九次の内 赤坂」
■小手(こて);肘(ひじ)と手首との間。また、手首。手先。剣道で、手首と肘との間を打つ決り手。
■名刀薄緑(めいとう うすみどり);源義経所持と言われる、豊前の長円(永延年間(987-989年))の作という太刀。
長円については、この「薄緑」の作者という他はほとんどわかっていない。同銘数代いたとされる。
太刀 「薄緑」 重要文化財 大覚寺蔵。
■今阪屋(いまさかや);奈良県宇陀市大宇陀中新1975。今阪屋の屋号の由来は文政年間(1818年~1830年)に吉野の南家より分家して宇陀松山に移り住んだ南 幸助の妻 聿が幸助亡き後饅頭を作って商売を始めました
特に今坂饅頭(今坂餅とも言うそうです)が評判になったので屋号を「今坂屋」としたのが始まりだそうです
今坂饅頭と言うのは現在の大福餅の様な饅頭で赤や黄の色を付けて成型した物だったと聞いています
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