落語「熊坂」の舞台を行く
   

 

 五代目三升家小勝の噺、「熊坂」(くまさか) 別名「熊坂長範」より


 

 泥棒などでも歴史に名を残したのがいます。義賊とか情けのある泥棒がいました。

 鬼坊主清吉、またの名を鬼薊(おにあざみ)梅吉といった。幼少から狂歌が上手く、廻船問屋に奉公している時主人に呼ばれて、お客の前で詠んだ。時は五月、床には鍾馗の軸が下がり、前には鬼薊が一輪挿してあった。
 『おのれやれ、花ならばこそ活けて置く、鍾馗の前に鬼薊とは』
これが元で、鬼薊清吉になったが、泥棒に入って捕まり、死罪になった。その辞世の句、
 『武蔵野にはびこる程の鬼薊、けふの暑さに今ぞ凋(しお)るる』

 その後、亀五郎が偽金百両使ったので、死罪になった。その時の辞世の句、
 『万年も生きよと思う亀五郎、たった百両で首がすっぽん』

 両国回向院の鼠小僧の墓の頭を欠いて持っていると、不思議と無尽講が取れるという。鼠小僧だから、鼠は引くに縁があり、泥棒は取るに縁がある、という。占いは恐ろしい物で、願うと叶う。

 他にも有名な泥棒がいて、石川五右衛門。五右衛門は京都七条河原で釜ゆでの刑で処刑された。釜の中には油が入っていたので、衣を着ければ天麩羅になるとこだった。五右衛門の辞世の句は、
 『石川や浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種は尽きまじ』

 また、世に名前を残したのが、熊坂長範。源氏の御曹司牛若丸に討たれた、加害者が有名だったから名が揚がる。
 左馬頭義朝(さまのかみ よしとも)が討たれて、母常盤御前に連れられ処方を逃げ回っていた、今若、乙若、牛若の三兄弟を連れて雪の山城国木幡の関に来た。関守は平家の宗清(むねきよ)、三人の子供を連れた美婦人なのですぐに見つかってしまった。総大将の平清盛が常盤に岡惚れしていたので3人の子供の命乞いを受け入れ、清盛の愛妾になることを承諾した。今若、乙若は伊豆に島流しになった。末の牛若は3歳なので流されず、7歳の時、鞍馬山に坊主として入山させた。
 平家を討って父の敵を取ろうと鞍馬を下山して奥州の秀衡(ひでひら)を頼って行く途中、美濃国青墓長者の屋敷に一泊した。この時、泥棒が入って金品を持ち出した。総勢三四十人で、大将は頭巾を被って大薙刀を持っている。その頃、日本中に悪名を轟かせている熊坂長範という大泥棒、牛若踏み潰してくれんと源氏の名刀薄緑の太刀を取って飛び出したが、この時牛若十六で花も恥じらう美少年、長範これを見て生意気な小僧だと薙刀を振り回したが、軽くいなされ、飛び込んだ牛若、丁と小手を打つと長範ポロリと薙刀を取り落とし、すかさず薄緑の名刀で首を切ったが血が出ない。そこで今度は向こう臑を払って、倒れた身体を踏むと、血が出ないで餡が出た。
 これは熊坂で無く今阪だ、潰して出たから潰し餡で御座います。

 



ことば

能の熊坂 (くまさか);五番目物。五流現行曲。作者不明。旅の僧(ワキ)が美濃(みの)国(岐阜県)赤坂の里を通ると、所の僧(前シテ)が呼びかけ、さる者の命日を弔ってほしいと庵室(あんしつ)にいざなう。そこには武具が多く備えられ、不審を述べる旅僧に、物騒な里ゆえ往来の者の難儀を救うためと語る。夜も更けると僧の姿も庵室も消えている。松陰に夜を明かす旅僧の前に、熊坂長範(ちょうはん)の亡霊(後シテ)が現れ、大長刀(なぎなた)を振るい牛若丸と戦った無念の死を仕方話に語り、回向(えこう)を願って消えうせる。現在能の『烏帽子折(えぼしおり)』の事件を旅僧の幻想として夢幻能の形で描いた曲。同装の僧が対座する前段は他の能にない特色。哀愁と豪快さの対比と同居がみごとな佳作である。

熊坂長範( くまさかちょうはん);生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に、7歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った。1174年(承安4)の春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次(きつじ)を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚(たん)は、義経(よしつね)モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。
 [稲垣史生]

 《義経記》では盗賊の名を長範とせず、藤沢入道と由利太郎とし、場所は近江国鏡の宿とされる。生国は越後と信濃の境にある熊坂(現、長野県上水内郡信濃町熊坂)とも加賀の熊坂(現、石川県加賀市熊坂町)とも伝える。
 平凡社世界大百科事典 第2版

 右浮世絵、月岡芳年『芳年武者无類 熊坂長範 源牛若丸』 浮世絵に描かれた熊坂長範と牛若丸。1883年(明治16) 国立国会図書館所蔵。

鬼薊(おにあざみ)梅吉;鬼坊主清吉。 黙阿弥脚本の芝居『花街模様薊色縫(さともよう あざみのいろぬい)』(当初は『小袖曾我薊色縫』。通称「十六夜清心(いざよいせいしん)」)に登場する「鬼薊(おにあざみ)の清吉」にも、実在したモデルがいたらしいです。
  「鬼坊主の清吉」という、江戸時代の盗賊がモデルだそうです。その人物のニックネームが「鬼薊の梅吉」だったから、役名は足して二で割ったような名前になった。『歴史読本 昭和五十五年九月号特集 大江戸怪盗伝』・新人物往来社(昭和55年)特集史論/怪盗たちの神話とその虚実「虚像のヒーローたち」(p50)によると、小さい頃から狂歌がうまく、狂歌好きの店の主人に気に入られ、あちこち連れて行かれるうちに、酒食の味を覚え、贅沢三昧になった挙げ句に道を踏み外し、人殺しまでやるようになった。
  生涯に妻を19人も取り替えたというほどの、色男だったそうで、左右の腕には桜の短冊、背中には滝夜叉姫の刺青を一面にほどこしていたそうです。最後には曲淵甲斐守に捕えられ、文化2年(1805)6月29日に小塚ッ原(こづかっぱら)で処刑された。
 白浪五人男ブログより

廻船問屋(かいせんどんや);江戸時代、廻船を所有し物資輸送を業とした海運業者。輸送だけでなく物資の売買をも兼ねたものが多い。鎌倉、室町時代の問 (とい) 、問丸 (といまる) などに起源をもち、室町時代末期から輸送と売買とは次第に分離するようになった。江戸時代に入ると、菱垣廻船、樽廻船のように海運専業の廻船問屋も出現した。しかしなかには北国廻船 (→北前船 ) のように運賃積みによらず、北陸、東北、蝦夷の諸産物を買入れては上方で売りさばき、同時に日用品を買込んで、翌春北国に帰航するものもあり、船主は売買問屋も兼ねていた。 
 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

鍾馗の軸(しょうきのじく);中国の「唐」第六代皇帝「玄宗」が流行病にかかり、床に伏し、高熱の中、夢に現れたのが鍾馗。鍾馗は、科拳(官僚登用試験)に失敗したことを恥じ自ら命を絶ったにもかかわらず、玄宗が手厚く葬ってくれた恩に報いるために夢に現れ、病の元である小鬼を難なく退治し、玄宗の病も治ったという故事に因み、道教の神として祀られるようになりました。
  日本では疫病退散、魔除けとして親しまれています。子供の成長を願い幟や軸に描かれることの多い鍾馗さん、関東では五月人形としても飾られるようですが、京都では屋根の上でよく見かけます。これは昔、薬屋さんが店の新築の際、立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの家の住人が突如病で倒れ、その原因は悪いものが鬼瓦に跳ね返ったためと考え、鬼より強い鍾馗さんを据えたところ病が完治したとか。
 その鍾馗を掛け軸にして五月の節句に床の間に飾ったのです。
 右図、「鍾馗」 国芳画。

鬼薊(おにあざみ);キク科の多年草。本州の山中に生える。茎は高さ50cm~1mになり、上部に縮れた毛や、くもの巣状の毛がある。根出葉は長さ30~60cmの楕円形で羽状に中裂し、各裂片は卵形でふぞろいの鋭い鋸歯(きょし)がある。7~9月に、紫色の筒状花を開く。総苞はねばり気がある。おにのあざみ(右写真)。

亀五郎(かめごろう);亀五郎というのは贋金を作って斬首の刑にあった罪人。刑を執行される前に辞世として詠んだ歌だそうです。親が「亀五郎」と名づけたのは万年も生きてくれという願いをこめたものでしょう。でも、たった百両の贋金を作っただけで首がスッポン。

両国回向院(りょうごく えこういん);東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の諸宗山無縁寺回向院。
 振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。
 あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所であり、この馬頭観世音菩薩も徳川家綱の愛馬を供養したことに由来している。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。

 1768年(明和5年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
 下写真、両国回向院、山門。山門は国道京葉道路に面しています。

 南千住回向院、東京都荒川区南千住五丁目にある寺で、過去は両国回向院の別院。現在は独立して正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも。1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことに始まる。

鼠小僧の墓(ねずみこぞう はか);時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。実際は、義賊では無く、飲む・買う・打つに使い切ってしまったと言います。 長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。

 

 写真、鼠小僧の墓 回向院境内。 削って良い墓は手前の白くなった墓。最初は立派な墓だったが削られ白く。

 落語にも登場します。落語「しじみ売り

無尽講(むじんこう); 相互に金銭を融通しあう目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、はじめは無利子・無担保だったが、掛金をおこたる者があったりしてしだいに利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後も、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間に行なわれた。頼母子(たのもし)講。頼母子無尽。無尽金。無尽。
 くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。また、ただ一度だけ集まり、くじに当たって落札した者が全員の掛金を得て解散するということも行われた。

石川五右衛門(いしかわ ごえもん);(弘治 (日本)4年(1558年)? - 文禄3年8月24日(1594年10月8日)一説には、12月12日とも)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原(小勝は七条河原と言っているが誤り)で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。素性については、色々伝説があって、どれが真実だか判っていない。右図。
 落語 『お血脈』 『釜泥』 『野ざらし』 『強情灸』があります。

牛若丸(うしわかまる);源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。

左馬頭義朝(さまのかみ よしとも);源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。

常盤御前(ときわごぜん);(保延4年(1138年) - 没年不詳)は平安時代末期の女性で、源義朝の側室。 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも。
 源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子(生誕時期不明)を産んだ。
 義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。
 右図、常盤御前(歌川国芳)。三人の子供を連れて雪の中を行く。

 やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。

今若、乙若、牛若(いまわか おとわか うしわか);源 義朝と常盤御前の三兄弟。
 今若
、通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名する。治承4年(1180年)、以仁王の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った(『吾妻鏡』治承4年10月1日条)。石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われる。10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。
 兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ。頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ(『吾妻鏡』治承4年11月19日条)、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚する。阿波局は建久3年(1192年)に頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となった(『吾妻鏡』建久3年8月9日条)。養和元年(1181年)以降、全成は『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月7日条と建久3年(1192年)8月9日条に所見するが、藤原公佐(全成の娘婿)や阿波局の関連で言及されているだけで、頼朝期には本人は一切登場しない。
 駿河国阿野荘を領有し鎌倉幕府の有力御家人として将軍家につかえた。 正治元年(1199年)に頼朝が死去し、甥の頼家が将軍職を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政及び義兄弟の義時と結び、頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日の子の刻(深夜0時頃)、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年51。

 乙若、義円(ぎえん)または源 義円(みなもと の ぎえん、久寿2年〈1155年〉 - 治承5年3月10日〈1181年4月25日〉)は平安時代末期の僧侶で、源義朝の八男。
 初め園城寺にて出家して卿公(きょうのきみ)円成となり、後白河天皇皇子である円恵法親王の坊官を務めていた。「卿公」は母が再婚した養父の一条大蔵卿にちなむ命名と考えられるので、養父の縁故によって円恵に仕えたと見られる。
 異母兄の頼朝が打倒平家の兵を挙げるとその指揮下に合流し、父である義朝から一字とって義円と改名する。治承5年(1181年)、叔父源行家が尾張で挙兵すると、頼朝の命により援軍としてその陣に参加。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙する(墨俣川の戦い)。この時、義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるが失敗。平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた。享年27。なお、『吾妻鏡』には義円が頼朝の元に赴いた記述がないため、義円は直接尾張に入り独自に挙兵したのではないのかという説もある。

山城国 木幡の関(こはたのせき);京都府南部宇治市の北部にある地名。京都に入る七つの街道(京都七口〈きょうとななくち)に設置された関所のことで、京都七口関の一つ。逢坂山へ通ずる要路であり、古くは宇治郡と紀伊郡とに広がる領域を指した。古くは京都市伏見区深草のあたりまでを含み、奈良街道の道筋にあたった。製茶問屋が多い。木旗。強田。関では幕府の財政的見地から、通行税を徴収し、旅人や商人などは相当の出費を覚悟しなければならなかった。その一環として犯罪人の取り調べなども行った。
 木幡ノ関は平安中期以降、旧大和街道の木幡山に設けられた関所で俗に高井戸とも称されました。旧大和街道はここから西北、桃山御陵の北を経て深草清涼庵の伏見北坂に通じ、その間を木幡の関路と呼んだ。

宗清(むねきよ);山城国木幡の関の関守。平 宗清(たいら の むねきよ)は、平安時代後期の武将。
 平頼盛の家人であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。 仁安元年(1166年)、正六位上で右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる。また、後白河院の北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている。
 治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。

 歌舞伎所作事【宗清】。常磐津。奈河本助作詞。五世岸沢式佐作曲。四世西川扇蔵振付。本名題「恩愛瞔関守(おんあいひとめのせきもり)」。文政11年(1828)江戸市村座初演。顔見世狂言「貢玉雪源氏贔屓(みつぎのゆきげんじびいき)」の三立目に用いられたもの。常盤御前は関守彌平兵衛(やへいびょうえ)宗清のことばに従って自分の操と引きかえに三人の子どもの命を助けることにし、清盛の館におもむく。雪の常盤。
 三児の母としての常盤御前と、三児を助けるために清盛の館に向かうという設定の歌舞伎。

伊豆に島流(いずに しまながし);鎌倉時代は、伊豆半島に流されることが多かった。江戸時代にはもっと遠方の伊豆七島全体が流罪地となっていましたが大島は本土に近すぎること、小さな離れ島は島人・流人ともに大変だということで 寛政8(1796)年に、新島・三宅島・八丈島のみになった。

 常盤御前の三児は島流しにはならず、出家させられ僧侶になっています。今若、乙若、牛若を参照。小勝の間違いです。

鞍馬山(くらまやま);鞍馬山は、京都府京都市左京区にある山で、標高584m。東を鞍馬川、西を貴船川に挟まれた尾根が南北に連なる。そこの鞍馬寺は、京都市 左京区鞍馬本町1074番地 鞍馬弘教総本山鞍馬寺。
 奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人が建立。
 平安末期、末法の時代、鞍馬寺の僧兵は比叡山の僧兵に数は劣るものの、より勇猛だと讃えられていました。源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に鞍馬寺に入山し、16歳の頃、鞍馬寺を出て奥州平泉に下ったと言われています。牛若丸は、由岐神社の上手にあった東光坊で昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説があります。南北内乱期には、僧兵の出兵を促す文書や後醍醐天皇の綸旨などが多数残っています。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。

奥州の秀衡(ひでひら);藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第三代当主。鎮守府将軍、陸奥守。
 安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。治承4年(1180年)、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとする。秀衡は義経を強く引き止めたが、義経は密かに館を抜け出した。秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。
 頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は文治3年(1187年)2月10日、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化する事を覚悟で受け容れる。
 義経が秀衡の下に居る事を確信した頼朝から「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」という訴えにより、院庁下文が陸奥国に出された。秀衡は異心がないと弁明しているが、この時頼朝が送った雑色も陸奥国に派遣されており、「すでに反逆の用意があるようだ」と報告しており、朝廷にも奥州の情勢を言上している。 このわずか2ヶ月後、義経が平泉入りして9ヶ月後の文治3年(1187年)10月29日、秀衡は死去する。
 秀衡の遺骸はミイラとなって現在も平泉にあり、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められている。
 死後わずか2年で奥州藤原氏は滅びるが、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物と言える。

 上写真、平泉にある中尊寺金色堂。

美濃国青墓長者の屋敷(みののくに あおはかちょうじゃの やしき);青墓の宿(岐阜県大垣市)は東国へ往来する旅人の宿場で、 当時遊女で賑わった町です。旅人の宿泊の世話をしたのが、長者とよばれる土地の豪族大炊(おおい)でした。
 後白河院によって編纂された『梁塵秘抄』には、青墓宿の阿古丸・目井・乙前(おとまえ)延寿(えんじゅ)などが登場し、なかでも乙前は後白河院の今様の師でもありました。 西行の祖父にあたる今様の名手監物源清経は、尾張の国に下向した折、宿泊した青墓宿で当時十二三才の乙前に出会いその声の美しさに将来大成するだろうと京へ連れ帰ります。
 西行の母方の祖父である源清経は今様の達人であっただけでなく、蹴鞠も得意とし文武両道に通じていました。父を早くに亡くして母方の家で育てられた西行は清経の才能を受け継いだといわれています。 延寿は青墓の長者大炊(おおい)の娘で、義朝(頼朝の父)との間に夜叉御前という娘を儲け、延寿の伯母は為義(義朝の父)の晩年の愛人となって4人の子供を生んでいます。
 遮那王(義経)が鞍馬寺から金売り吉次とともに奥州へ下向の途中、 立ち寄ったというよしたけ庵(円興寺の一坊円願寺=廃寺)があります。遮那王は近江から杖にしてきたよしの杖を地面に突き挿し、源氏が再び栄えるよう祈り「♪挿し置くも形見となれや後の世に源氏栄えばよし竹となれ」と詠み出発しました。後にその願いが通じたのか、よしが芽をふき竹の葉が茂り寺は「よしたけ庵」と呼ばれました。
 青墓宿場として栄えていたのは鎌倉時代あたりまでのことで、以降は杭瀬(くいせ)川の渡し場がある中山道・赤坂宿が代わって発展していきます。

 

 歌川広重画 「木曽街道六十九次の内 赤坂」

小手(こて);肘(ひじ)と手首との間。また、手首。手先。剣道で、手首と肘との間を打つ決り手。

名刀薄緑(めいとう うすみどり);源義経所持と言われる、豊前の長円(永延年間(987-989年))の作という太刀。 長円については、この「薄緑」の作者という他はほとんどわかっていない。同銘数代いたとされる。
 膝丸(ひざまる)は『平家物語』の「剣の巻(つるぎのまき)」等の伝承において語られる太刀。髭切とともに清和源氏が代々継承した名刀とされる。源義経や曾我兄弟の仇討ちと縁が深い。 また、膝丸として伝えられる刀が複数存在する。
 熊野別当湛増から源義経に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改めた。その名は熊野の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納した。だが、薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。
 平家物語によると、
 「源氏重代の剣、本は膝丸、蛛切、今は吼丸とて、為義の手より教真得て権現に進らせたりしを、申し請けて源氏に与へ、平家を討たせん」とて、権現に申し賜ひて都に上り、九郎義経に渡してけり。義経特に悦びて「薄緑」と改名す。その故は、熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。この剣を得てより、日来は平家に随ひたりつる山陰・山陽の輩、南海・西海の兵ども、源氏に付くこそ不思議なれ。

 

 太刀 「薄緑」 重要文化財 大覚寺蔵。

今阪屋(いまさかや);奈良県宇陀市大宇陀中新1975。今阪屋の屋号の由来は文政年間(1818年~1830年)に吉野の南家より分家して宇陀松山に移り住んだ南 幸助の妻 聿が幸助亡き後饅頭を作って商売を始めました 特に今坂饅頭(今坂餅とも言うそうです)が評判になったので屋号を「今坂屋」としたのが始まりだそうです 今坂饅頭と言うのは現在の大福餅の様な饅頭で赤や黄の色を付けて成型した物だったと聞いています
 明治の中頃に3代目の藤平が料理屋を始めましたこの頃は饅頭屋だった時の屋号「今坂屋」をそのまま使っていたのですが 明治35年頃5代目の由蔵が旅館を始めた際に4代目が早くに亡くなった事や後を継ぐ筈だった子供を亡くしてしまったりと不幸事が重なったので「坂」の字は土に返ると書くので縁起が悪いと「坂」を「阪」と改めて「今阪屋」としたそうです 当時は看板を書き替えただけだったので昭和初期の奈良縣電話番號簿に「今坂屋」と書かれていましたし私が子供の頃の写真にも「今坂屋」と書かれた暖簾の前で撮った物があます これらは誤植だった様で発注の時に「今阪屋」で注文しているのに受注側が勘違いしてわざわざ字を書きなおし印刷や染織に回した様です。屋号を換えて30年以上経っても「今坂屋」と名前の入った仕込み箱(岡持ち)や湯呑や灰皿を使っていたためまだまだ「今坂屋」と認識されていた様ですまたこの頃はのんびりした時代だったので特にクレームを付けると言う事もなく「あぁまた間違えてるわ」程度でそのまま使用していたそうです。それに現在でも御付合いの古い取引先の請求書や領収書には「今坂屋」と書かれている事があります(笑)
 料理旅館 今阪屋ホームページより



                                                            2021年9月記

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