落語「裸の嫁入り」の舞台を行く
   

 

 柳家小満んの噺、「裸の嫁入り」(はだかのよめいり)より


 

 八五郎が家主から呼ばれたので出掛けていくと、「な~、八五郎、この長屋で女房の居ないのはお前だけだ。ひとつ俺が世話をするから、もらったらどうだい。歳は二十二で身体は達者で、夏冬の道具があるだけで裸だ。ただ彼女は旦那を亡くしていて、嫁ぐのは二度目だ。それを承知なら先方に話をしてみよう」。
 八五郎これを聞くと、「へぇ、お願いします」、「そうか、それではよろしいッ。暦を調べてみよう。うん、あいにく今月中は、今日の他良い日が無いな」、「じゃあ、今夜はどうですか」、「そいつは性急だがよしよし、どうせ裸の結婚式だ。今夜だって間に合うだろう。では、夕刻本人を連れてくるから、家の中を掃除して、何はなくとも尾頭付きとお酒を用意しておきなさい」ということになった。

 そうこうしていると日も暮れて、家主が花嫁を連れてやって来た。が、驚いたことには本当の裸で、着物を着ていない。腰切の半纏に湯文字一つ、綿帽子の代わりに白い風呂敷を被っている。これにはさすがの八五郎もビックリしたが、身体が臼のように肥えて丈夫らしい。そして、背負った包みを開くと夏冬の道具一式が出て来た。夏用に『渋ウチワ』、冬用に『アンカが一つ』、それが花嫁の全財産だった。そのうえ、綿帽子代わりの白い風呂敷を取ると、これは、大変なご面相。しかし、家主はしきりに花嫁の気立ての良いことを説いて、「私は媒酌人の役目柄、高砂やの一つも唄いたいのだが、何も知らないので・・・」、すると花嫁は、「いえ、家主さん、私が替わって唄いましょう」と立ち上がった。
 心張り棒を二本借りると、一本を杖にして、もう一本を肩に担いで、長持唄を唄い出した。「♪あぁ~、立場立場で酒さえ飲めばヨ~、青梅桟留(さんとめ)ヨ~、着たつもりヨ~」と、人足唄を歌った。
 八五郎は肝を潰して、「何ですィ、これは、まるで街道の雲助のようだ」、「分からないか、嫁は今は裸でも、あとから長持ちが来るんだ」。

 



ことば

家主(やぬし、いえぬし);近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
 主人不在の家屋敷を預かり、その管理・維持に携わる管理人のこと。家主(やぬし、いえぬし)、屋代(やしろ)、留守居(るすい)、大家(おおや)などとも呼ばれた。日本の近世社会は、家屋敷の所持者である家持を本来の正規の構成員として成立していたが、なんらかの事由で家屋敷の主人が長期にわたって不在となる場合、不在中の主人に委嘱され、家屋敷の管理・維持にあたるのが、家守の基本的性格である。

 長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。
 江戸時代の大家には別の顔もあった。地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。大家はたいがい、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。近くに住んで、常に睨みをきかせているわけだから「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉が生まれた。
 大家の職制
  * 大家が五人組を構成しその中から月交代で月行事(がちぎょうじ)を選び町政に当たった。
   * 町触れ伝達。
  * 人別帳調査。
  * 火消人足の差配。
  * 火の番と夜回り。
  * 店子の身元調査と身元保証人の確定。
  * 諸願いや家屋敷売買の書類への連印。
  * 上下水道や井戸の修理、道路の修繕。
  * 長屋の住人の世話を焼いたり、喧嘩・口論の仲裁。冠婚葬祭の対応。
  * 店子が訴訟などで町奉行所へ出頭する際の付き添い。
  * 家賃を集金したり長屋全体の管理業務。

 この噺でも、大家が店子八五郎の結婚の世話をしています。大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。

暦を調べる(こよみを しらべる);伊勢暦(いせごよみ)1632年より発行され江戸時代には全国各地に配布された。 この暦には吉凶凡例、日ごとの節季や農事に関する記述があり生活暦(せいかつれき)として重宝され、伊勢詣の土産にもなっていた。配布数も増加し享保年間(1716-1735)には毎年200万部が出版され、全国で配られた暦の約半数を占めていたともいわれている。
 しかし、1871年(明治4年)には明治政府の改暦で、グレゴリオ暦の導入にあたり、旧暦の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。官暦ではそれまで記載されていた吉凶の記載が除かれ、明治末には旧暦の記載も無くなった。

今夜の結婚式(こんやの けっこんしき);新郎新婦のいずれか(通常は新郎)の自宅や本家の屋敷などに親族や知人を招いて行われる。日本でもかつては極めて一般的な形式であったが、住宅事情の変化や費用が掛かること、長時間に渡る祝宴もあって、現在は一部の地方を除いてめったに行われることはない。その開始は夜の五つ(現在で言うところの21時頃)から結婚式が行われることが多かったという。庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。

謡曲(ようきょく);おめでたい謡(うたい)として結婚式に欠かせない謡曲「高砂」は、室町時代に能を完成させ、謡曲の神様ともいわれる世阿弥元清の作品です。物語は阿蘇の神主友成が上京の途中に高砂の浦に立ち寄った際、相生の松の精である老人夫婦と出会うところから始まり、夫婦愛、長寿の理想をあらわした謡曲の代表作だといわれています。

謡曲“高砂”

高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住の江に 着きにけり
はや住の江に 着きにけり

四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎(おろ)かやかかる
代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき

 落語「高砂や」より孫引き。

腰切の半纏(こしきりの はんてん);半纏には「長半纏」と「腰切り半纏」という種類があります。長半纏は身丈の長い半纏で、ひざ下までの長さとなっています。それに対し、腰切り半纏は腰のあたりまでの長さで、職人が着用するような、一般的にイメージされる半纏になります。流れとしては、江戸時代の後期に腰切り半纏の派生として長半纏が生まれ、大工の頭領や町火消しなどの一部の職人に着用されたという経緯があります。

湯文字(ゆもじ);江戸前期までは、銭湯などで入浴の際には下帯、腰巻をするのが習慣で、別に持参した下帯、腰巻とつけ替えて入浴し、下盥(しもだらい)で洗って持ち帰った。この下帯を〈ふろふんどし〉、腰巻あるいは身に巻きつける布を〈湯文字(ゆもじ)〉〈湯巻〉といった。また、ぬれたものを包むため、あるいは風呂で敷いて身じまいをするための布を風呂敷といい、その名称は今日も残っている。

綿帽子(わたぼうし);もともとは、挙式を終えるまで新郎以外に顔を見られないようにするためのアイテムだった綿帽子。
 和式の婚礼の儀において、花嫁が文金高島田と呼ばれる、日本的な高い髷を結った髪の上に、頭を覆う形で被る、白い袋状の被り物。本来は、真綿を加工して広げて作る防寒具のことであったが、後に婚礼衣装のひとつとなった。異称として、置き綿、被き綿、額綿などがある。
 ウィキペディア

 右写真、神社で行われた結婚式で花嫁が被る綿帽子。

夏冬の道具一式;夏用に『渋ウチワ』、冬用に『アンカが一つ』、それが花嫁の全財産。

媒酌人(ばいしゃくにん);仲人(なこうど)。かつては「仲人は親も同然」という格言があるほど、仲人の影響力は強いものであったが、人間関係や時代背景の変化とともに仲人を設定する結婚式は減少傾向にあり、さらに平成不況による職場環境の激変(終身雇用体制の崩壊)を背景に1990年代後半を境として激減し、仲人を立てる結婚式は首都圏では1%だけとなり、最も多い九州地方でも10.8%に過ぎなくなった(ゼクシィ調査 2004年9月13日発表)。
 また仲人を立てる場合であっても形だけの仲人を設定するケースが大半である。形だけとは言え、婚約・結納・結婚式(結婚披露宴)などの重要イベントでは臨席と挨拶が求められるので、伝統的なしきたりについて相応の知識を仕入れておくのが一般的である。また婚姻届においては証人となることもある。
 ウイキペディアより

長持唄(ながもちうた);日本民謡の分類上、祝い唄のなかの一種目。嫁入りの花嫁道具の代表格、箪笥(たんす)長持を運ぶおりの唄の総称。その源流は東海道、箱根峠あたりの雲助が歌っていた「雲助唄」であるが、それを、参勤交替の大名行列の人足に助郷(すけごう)として駆り出された農民が覚え、それぞれの村へ持ち帰ると、花嫁行列を大名行列に見立て、箪笥長持担ぎの唄として用い始めたのである。なお、この唄は担いで歩きながら歌うのではなく、柄を息杖(いきづえ)で支えておいて、花嫁や荷物を褒めたたえた文句を歌ったり、担ぎ手の交代の場合などの問答歌として利用されてきた。節回しは全国各地大同小異であるが、宮城県仙台市以北のものがもっとも美しい。

立場(たてば);江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある。
 この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた。
 もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれています。  

青梅桟留(おうめ さんとめ); 織物の一つ。武蔵国青梅(東京都青梅市)辺から織り出す桟留縞。また、それで仕立てた着物。青梅縞。
 近世の初め、インドのチェンナイ(マドラス)付近にあるサントメSan Tome(英語ではセント・トマス)から渡来した木綿の縞織物。この織物が広く日本で生産されるようになると、外来のものは唐桟留(とうざんどめ)、略して唐桟といった。紺地に蘇枋(すおう)染めの赤糸入りのもの、浅黄縞のものなどがあるが、いずれも細番手の綿糸を使い、砧(きぬた)仕上げを施してあるため、地合いが滑らかで光沢があり、珍重された。ほとんどが経(たて)縞で、冬着の生地として流行し、粋(いき)な姿をつくりだした。国産化は、元和(げんな)年間(1615~1624)に伊勢(いせ)松坂で縞木綿がつくられ、各地で盛んに製織されたが、武州(埼玉県)川越(かわごえ)で、幕末につくられたものは、洋糸を使い、川越唐桟(川唐)としてよく知られた。

  上、青梅桟留

 宝永年間(1704‐11)豪商淀屋辰五郎が財産を没収された罪科の第1条は白無垢の肌着を用いたことであったが、のちには町人も葬式には白無垢を着るようになった。また武士は光沢のあるもの、町人は光沢のないものを着るなど、江戸初期にはそれによって材料の優劣を示したものであったが、江戸中期以後町人の着た木綿の唐桟(とうざん)は、武士の着た絹の上田縞などの5倍以上も高価なものであった。こうした着物の身分差の崩壊は、武士と町人の力関係の変化を示し、身分制の崩壊と正比例している。

人足唄(にんそくうた);荷物の運搬や普請などの力仕事に従事する労働者で、その仕事上歌われる唄。

街道の雲助(かいどうの くもすけ);江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕籠かきに携わった人足を指し示す言葉。 また、人の弱みにつけ込んだり、法外な金銭を取ったりする者を、ののしっていう語。
 本来人足業は、農家の助郷役として行なわれていたが、代銭納が増えたことで人足が不足となった。そのため江戸幕府は1686年(貞享3年)に、出所の知れた浮浪人に限って人足とすることを許可している。これらは宿場人足と呼ばれ、親方の下である程度の統制を受けたが、そこに混じって出所の知れないモグリの宿場人足が横行した。 これらモグリの人足の中には、たかり・ぼったくり・窃盗を行なうタチの悪い無頼の者も多かった事から、蔑称として用いられるようになった。もちろん、風雨や危険な山道を省みずに昼夜問わず駆け抜けて旅行者を安全に輸送した善良な雲助も大勢存在し、江戸時代を通じてこうした雲助が、道中の安全な移動を支えてきたのも事実である。

長持ち(ながもち);和櫃(わびつ)の一種で、衣類や蒲団、調度品等を入れておく長方形をした蓋(ふた)付きの大きな箱。両端に金具があり、棹を通して二人で担ぎ、運搬用にも用いた。 かつては、花嫁が輿入れする際の必需品であった。

 

 長持ち。運ぶ時は上部に竿を渡し二人で担ぐ。



                                                            2021年10月記

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