落語「鬼あざみ」の舞台を行く
   

 

 四代目 桂文紅の噺、「鬼あざみ」(おにあざみ)より


 

 「お母(か)ん、金おくれんか。なぁ、三十文おくれぇな」、「まぁあんた、三十文もどないすんねん」、「芝居見に行くねん」、「芝居見るだけやったらあんた、三十文も要らへんやろ」、「腹減ったさかいな、寿司買ぉて食べんねん」、「お父っつぁんの休みの日に連れてもらいなはれ。わたしが頼んで連れてもろたげよ。芝居見たかったら、芝居入るだけのお金あげよ。お腹空いたらな、家(家)でご飯食べて行きなはれ」、「あぁ継子やさかいくれへんねんな。死んだお母んやったらお父っつぁんに内緒でくれたがな」、「わたしが育てたらわたしの子に違いない。そんなこと言わんとご飯食べなはれ」。
 おまさはんと申しまして、継母でございますがいたって子ども思いの人。お膳を出してご飯をよそてやりましたが、さぁこの小倅(こせがれ)がなかなか喰らいよらん。お膳を足で庭へボ~ンと蹴り落としまして、お膳は壊れる茶碗は割れる、そんなり表へ出ました。これぐらいの水溜まりがある。そこで二、三べんトントンと四股を踏む。それでも着物が思うよぉに汚れませんので、ド~ンと尻餅つきよった。腰から下泥だらけ、そんなりポイッと表遊びに行きよった。
  「うぃ~ッ・・・、おい、そこで立って泣いてんのん清吉やないかい。何やお前のその着物は、お前と家主のボンボンとは一緒にならんぞ。家主の坊、着物汚しても、家に掛け替えがぎょ~さんある。お前それ汚したら代わりがどこにあんねん。大きぃ体(なり)して路地(ろぉじ)小口立って泣いてるなんてみっともない」、「いま遊びに行ってな、戻って来てお母はんに飯食わして言ぅたら、『子どもは日にいっぺん食たら食わいでもえぇ』。あんまりお腹が減ったさかい、勝手にお膳出して食べよ思たら、『今から親の言ぅこと聞かん子や』言ぅて、表引きずり出されて水溜まりでこかされたん。こない着物が汚れたん・・・」、「堪忍せぇ。われがおるために、おら生涯ヤモメで暮らそと思た。けどなぁおい、人さんが薦めてくれたんで拠所(よんどころ)のぉもろた嬶(かか)。俺は出商売、そんなことしよぉとは夢にも思わなんだ。戻って来い飯食わしたる。戻って来い」、「家帰ったらお母んに怒られる」、「えぇわい、俺が付いてるわい」。

 「おい、いま戻った」、「あんた、お帰り」、「清吉、うえ上がれ。上がって仏壇(ぶったん)へお光あげ、位牌が三つ並んだぁるあの小口の新しぃ位牌がお前のホンマのお母はんじゃ、『今まで生きてたら三度のものは三度ながら、腹いっぱいいただきますもの』と、そぉ言え」、「またどこかでお酒呑んできたんやわ、いぃえぇな、その子が何と告げ口したか知らんけど、実はこうなんです。わたしが着替え持って表へ出るともぉそこらにいやへんので、そのままにしたぁんねんわ」、「やい、俺の前では体裁のえぇことつべこべぬかして・・・、憎いじゃろ。憎いじゃろぉがな、子どもといぅものは金持ち貧乏人に関わらず、家で腹いっぱい食わしてやっても表出て人さんがもの持ってたら、欲しがんのが子どもじゃ。三度のものは三度ながら腹いっぱい食わし続けてやってくれ」、「わたしがあんたの留守にこの子の口ひじめてご飯食べささんよぉな言ぃ方やが、わたしがどんな育て方してるかご近所で聞ぃてもらいないはれ」、「何ぃ『近所で聞ぃてもらえ』、こらッ、家の恥を近所へ持って行かいでも、『子ども正直』ちゅうことがあるわい」。
  こぉなったらたまりません、なにぶん親父お酒の入ってるとこへ、ただ子どもが可愛ぃといぅだけでございます。可哀想ぉに継母だけに言ぃ訳が口応えになる。誰しも男といぅものは憶えのあるもんで、前後構わずネキにある土瓶を投げる、茶碗を投げる、立ち回りの大喧嘩。ところが誰一人として止めに来ません。といぅのが、この子に係って三日に上げずの喧嘩、誰一人止めに来ん。ちょ~ど表通りましたのがお家主。
 「安っさん、そんなもん振り回してどないすんねん。おまさはん泣かいでもえぇ泣かいでも、お前さんのしてることはな、わたしも知ってる、世間の人もよぉ知ってる。生(な)さん仲の子、よぉまぁあれだけ世話してやってなさる。安っさん放っといたら何をするや分からん、わたしが家へ連れて帰って酔いが醒めたらトックリ言ぅて聞かします。さ、安兵衛はん家おいで・・・」、「放っといとくなはれ」、「大きな声で何を・・・、家おいで・・・」。
 酔ぉてる安兵衛を肩に掛けまして家へ連れて帰ります。板の間へゴロ~と寝かしたりましたが、人の世話といぅものはなかなかでけんもん。風邪を引ぃたらいかんといぅので布団一丁着せてやりまして、安兵衛酔いが回ってますのでえぇあんばいにひと寝入り寝込んでしまいよった。

 「ふぁ~~ッ、おいおまさ、水一杯くれ。おまさ・・・」、「安兵衛はん、酔いが醒めたかえ」、「お宅でございましたか。また少し入っておりましたんで、喧嘩でもしてご厄介になったんやおませんか。いずれ改めてお礼(れぇ)に上がります、さいならごめ・・・」、「あぁちょっと待ちなされ。いやいや、長い手間は取らさん、ちょっとお前さんに話があんのじゃ。お前さんといぅ人は酒さえ呑まなんだらえぇ人やがなぁ~、酒が入ると手の平返したよぉになるんじゃ。話といぅのはほかじゃない、お前さんも子があるわたしも子がある、子が可愛ぃと思やこそ話をするが、決して悪ぅ思てなや。実はな、お前とこの清吉、家の店出て来て店に並べたぁる品物を一つ持って帰り二つ持って帰り、いやいや、子どもじゃで大したことないが・・・、ものを掴んでポイッと出て行きよる。あぁこらいかんなぁ、こらいっぺんお前さんに言ぅてやろぉと思たが、わたしが言えば人さんの大事な息子に傷を付けんならん・・・、と再三放ったらかしにしといたが、近頃は段々だんだん遊びが変わってくる。この頃な、家へ出て来てあたりの様子をジィ~ッと見る、人気がないと銭箱を狙ぉて来る。いやいや、これも子どもじゃ大したことはないが、金を掴んでポイッと出て行きよる。
 ついこないだも、向こぉの路地角へよぉ信楽餅屋が店を出しに来るなぁ、信楽餅屋の店台柔(やり)こいもんや。店の端に縄くくり付けて、縄の端を横町へ引っ張って行きよる。さぁどっから連れて来んのか、おんなし年頃の子十人ほどでその縄を力任せにグ~ッと引っ張る。店がひっくり返って信楽餅屋が、『おのれ~』追っかけてるあいだに清吉なぁ、反対側の路地からヌ~ッと出よって売上から砂糖から信楽餅、すっくり懐入れてそんなりポイッと出て行きよる。可愛ぃ可愛ぃと思て遊ばしとくと、ロクなもんにならん。なぁ、子どもが可愛ぃと思えば他人の飯食わしなされ。いや悪いこと言わん、今の家に少しむつかしぃとこへ奉公にやっとけば真人間なるか分からんが、あのまま可愛ぃ可愛ぃで遊ばしといたんでは・・・。何なら、わたし二、三心当たりがあるで、世話してあげてもえぇ」。
 「ちょっとも存じませなんだ・・・、まことに申し訳ございません」、「いやいや、家にことわらいでもえぇ、お前さんさえ合点(がてん)がいたらそれでえぇのじゃ。で、お前さん家(うち)で喧嘩しなさんなや、けどえぇ嫁はんもろたなぁ、お前さん。あんなえぇ嫁さん粗末にしたら嬶罰(かかばち)が当たるで。相手は女じゃ、たまには優しぃ言葉のひとつもかけてやんなされや」、「ありがとぉございます・・・、さいならごめん」。

 家主を出ましてわが家へ帰ってまいります。「おまさ、おら今日まで何も知らんとお前に心配ばっかりかけたがすまなんだ・・・、堪忍してくれ」、「何を言ぅてなはんねんこの人」、「清吉どぉした」、「奥で寝てますわ」、「寝てるか? 表閉めて鍵掛けて来い」。
 何を思いましたか、台所にあった出刃包丁を持って奥へ行きます。 「あ、あんたッ」、「え~い、離せ・・・、離せ。おらなぁ、今日まで何も知らなんだが、家の清吉は泥棒、盗人するそぉな・・・。あんなやつ生かしといたら、どぉせ俺の首に縄掛けるやつ、えぇ~い離せッ」、「滅相(めっそぉ)な、あんたとわたしと二人の仲の子どもなら、あんたがどないしょ~と構わん・・・。わたしは生さん仲、もしあんたがおかしなことしてくれたら、わたしが世間の人に何と言われるか分からん。どぉぞそればかりは・・・」。
 振り切って奥へ入って殺そぉといたしましたが、どぉして殺すことがでけましょ~、そこが我が子でございます。情に引かされて殺すことがでけん。
 「あぁ~、どぉしたらよかろぉ・・・、こぉしたらよかろぉ・・・」と、夫婦が泣きの涙で夜明かしをいたします。
 ガラリ夜が明けますと、えぇ思案が付きませんので家主を頼んで清吉を奉公に出します。清吉が奉公に出ましてからは、おまさはん殊に良くでけた人、安兵衛も三べんの酒は二へん、二へんの酒は一っぺんと酒をたしなんでは一生懸命働きます。こぉなると夫婦(みょ~と)仲といぅものはいたって円満に仲むつまじく暮らしております。

 清吉が奉公に出ましてから十年のち。

 頃しも六月の半ば、ただいまと違います旧暦の六月。暑い最中、家主の表へ立ちましたのは立派な形(なり)をしたお若い衆。
 「御免ください、旦さんでございますか。ご機嫌よろしゅ~ございます」、「はい。ちょっと待っとぉくなされや。え~、いま『旦那』とおっしゃったが、あんたのよぉな立派なお方に旦那と言われるよぉな、わたしゃ身分が違いますが」、「お見忘れになりましたか、ちょ~ど今から十年前あなたのお世話になりまして奉公にやっていただきました。親どもはあなたの長屋に住んどります、安兵衛のせがれの清吉でござります」、「えッ? 幼顔が残ってる、清吉か。はぁ立派になったなぁ~。もぉ十年も経つ・・・、早いもんじゃなぁ。ついこないだやったで、暑いなぁ。立派になってお父っつぁんも喜んでたじゃろ。え、まだ家帰ってない。わしとこは構わん、早よ帰(かい)ってな、顔見せてやんなされ。と言ぅのがな、お前が奉公に出てちょ~ど三月(みつき)ほど経ってからじゃ、安兵衛はんが家来て、『清吉はご主人さんの家で大人しゅ~奉公してるもんでございましょ~か、気になってなりません。いっぺん行てまいります』と言ぅたが、いやいやそぉじゃない、里心出してはならん、行かん方が良かろぉ。と再三止めといたが、今お前さんが言ぅた通りもぉ十年も経つでなぁ。けどお前さんは親不幸じゃで、それだけ立派になってんのなら何で手紙の一本も出してやんなさらん。その立派な姿見たらどんなに喜ぶや分からん、わしとこは構わんで、早よ帰って顔を見せてやんなされ」、「ありがとぉございます。何から何までお世話になりまして申し訳ございません。何かお手土産と思いましたが、別段これといぅもんもよぉ持ってまいりません。これ、ホンのおしるしだけで・・・」、「いやいや、そないな心配はしてもらわいでもえぇが・・・。はいはい、せっかくのご心配じゃ、こらありがとぉいただいときます。暑い時分じゃでな、冷や素麺ぐらいこしらえときますで、家帰って顔見せたらすぐに遊びに来とくれや」、「ありがとぉございます。さいなら、ごめん」。

 家主を出まして我が家へ帰ってまいります。安兵衛はん、ちょ~どその日は商売が休みとみえまして、素っ裸で越中フンドシ一つといぅ格好。小さな飯台(はんだい)へ二品三品並べて一杯やってます表から・・・。
 「御免ください、お父っつぁんでございますか、ご機嫌よろしゅ~ございます」、「へぇ。着物どこへ持って行きやがったんや・・・、そぉ挨拶されますと挨拶のしよぉが分かりません、汗をかきますので・・・、おい、おまさ」、「うるさいなぁ、あんたわ。支度したぁるさかい勝手に呑んでたらえぇやないか」、「おい、どこの旦那や知らん来はってん。ちょっとお前来てくれ」、「お越しやす・・・」、「お母さんでございますか、ご機嫌よろしゅ~ございます」、「ちょっと、あんた、家の清吉やがな・・・」、「せ、清吉か? そんならそぉと言わんかい。お父っつぁんどこの旦那来はったんか思て汗かいた・・・。清吉家戻ってくる前にな、そんだけ立派になったんはみんなお家主のお陰、家主さんに行て来んかい。行て来た? 堪忍せぇ、おまさ聞ぃたか家主さんに行きよったんや。奉公ささんなんもんやなぁ。旦那にお目にかかって、『立派になった』とおっしゃった? おぉ立派になった。手土産も持って行った? よぉ持ってってくれた、それでこそお父っつぁんの肩身広がんねん。何ぼで買ぉたんや」、「もぉそんなこと尋んねなはんな、アホやなぁ」。
 「こっち上がれこっち、ウワァ~ッ肩幅でもこないあるわ。キリッと舞ぉてワッと両の手上げてみ・・・」、「何言ぅてんのこの人わ」、「待てまて、そんなとこ座ったらあかん。汚れたぁる、お父っつぁんが片付けたる」、「あんた、お櫃お仏壇へ乗せてどぉしまんねんな」、「お前みたいに落ち着いてんと、汗かいとんねん湯ぅ沸かせ、行水させ」、「それよりこの横町に風呂屋がでけたんねん、風呂屋やったらどぉや」、「せや、風呂行って来い、そのあいだに綺麗ぇに片付けといたる。おい待てまて、風呂屋行くのにそんなえぇ下駄履いて行てどないすんねん。行て来い・・・。お~い、その溝板、端がポ~ンと上がんねん、気ぃ付けよ・・・。お~い八百屋、その車どけたれ車を。家のせがれ通るやないか、もっと端へやれ端へ・・・。おまさ見てみぃ、うまいこと歩きよるなぁ、互い違いに足出して」、「わたしなぁ、あの子帰って来て、嬉しぃ中にちょっと悲しぃ思うねん」、「何でお前、そんな妙なこと」、「いぃえぇな、あの子の着てる着物なぁ、上下すっくり揃えたら相当お金のかかるもんやで。奉公人にあれだけえぇなりをさしてる家はないと思うねわ」、「そぉか? そら俺では分からん、そこらに何ぞあいつの持ちもんないか」、「ここに財布があるわ」、「かしてみ・・・」。
 開けてみると小判がザクッといぅほど入ってる、二人はただボ~ッとしとる。

 「ちょっと、清吉帰って来たで」、「これそっちやっとけ・・・。清吉、えぇ風呂がでけとったやろ、もっとこっち来い。遠慮はよそ行ってせぇ、こっち来い」、「お、お父っつぁん、何を・・・」、「言ぅな清吉、おのれはな (♪ハメモノが入り芝居口調で)三つの癖は百までと、まだ悪い根性が直らんのじゃな。この父親(てておや)身貧に暮らせども、人さんのものはチリすべ一本掠(かす)めたことはない。親が子に手を合わして拝めば、世間の人は何と笑うか知らんが、このとぉり、手を合わして拝む。どぉぞ改心して真人間になってくれ・・・。なぁ清吉、自首せぇ。このとぉり、このとぉりや」、「そぉおっしゃりゃ仕方ござんせん、何もかも申し上げましょ。(♪ハメモノが入り芝居口調で)なるほど、お家主のお世話でご奉公にはまいりましたが、半季はおろか三月も続かず。主人の家を飛び出して、どこへ行くともなく彷徨(さまよ)う内、悪いことは数重ね、今じゃ東の土地で鬼あざみの頭(かしら)とか、いやさ、兄分とか、仲間のやつが立てられる身の上。あっしが改心すると言っても、到底仲間のやつが改心させてくれません。今日(こんにち)帰りましたのはお暇乞いかたがた、勘当してもらいに帰りましたんでございます。その代わり父っつぁん、このお金は僅かですがあんたに差し上げましょ」、「言ぅな清吉。人さんのもの掠めて盗ったもの、びた一文要らん。これ持って、とっとと出て行け」、「そぉおっしゃりゃ仕方がない、じゃ、随分マメにお暮らしを・・・」。
 清吉が出て行きます。

 出ましたあと、これを苦にいたしまして、おまさは病死をいたします。ちょ~ど3年のちに安兵衛が戎橋から身を投げよぉとするところ、通り掛かりまして助けましたのがこの鬼あざみの清吉。
  どぉした縁ですか、親の命を救ぅた・・・、『武蔵野にはじかるほどの鬼あざみ、今日の暑さに枝葉しおるる』と辞世を残しまして、30歳を一期に刑場の露と消えます。盗みはすれど非道はせず、ある所のものを持ち出しては貧しぃ人を助けてやったといぅ、義賊鬼あざみ清吉、生い立ちのお話でございます。 

 



ことば

四代目桂文紅(かつら ぶんこう);(1932年4月19日 - 2005年3月9日)は、上方落語家。出囃子は『お兼晒し』。本名:奥村 壽賀男(すがお)。
 立命館大学に通いながら電線会社でアルバイトしていた時に、組合の文化祭で落語を演じ、後に素人コンクールで2位なった。上方落語の世界初の大学卒業の噺家。 1955年(昭和30年)3月、四代目桂文團治に入門。桂文光を名乗り、同年8月に大阪松島福吉館で初舞台。 1959年2月、四代目桂文紅を襲名。1970年から1975年にかけて、三代目桂文我と「文文の会」を開いた。「上方落語四天王」(六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝、三代目桂米朝、三代目桂春団治)に次ぐ世代として、戦後の上方落語復興期をともに良く支えた。

落語「双蝶々」(ふたつちょうちょう);「鬼あざみ」は、講釈ネタで、上方落語には珍しい人情噺で、オチはありません。前半部の清吉が引き起こす家庭内騒動の件は、東京の六代目三遊亭圓生が演じた長編人情噺『双蝶々』の発端部と同じであり、何らかの関連性が有るのかも・・・。また、中間部の清吉が銭湯に行く場面や、財布を覗き驚き思案する場面は、金馬の「藪入り」にそっくりです。後半部の安兵衛と清吉との会話は、はめものが入り芝居がかった演出がとられている。 なお、清吉が親の元を去ったあと、「このあと、おまさは気に病んで死んでしまいます。三年後、世をはかなんだ安兵衛が橋から身を投げようとしたのを、清吉が助けるという因果となり、清吉は金持ちの家に入り貧しい家には入らず盗んだ金子を与えるという、義賊のようなもので。『武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる』という辞世の句を詠んで、30歳を一期として刑場の露と消える、鬼あざみの発端の一席…」と講釈風の説明を入れてこの噺は終わる。しかし、義賊のようなことはありません。
 四代目桂文紅は師の文團治から直接この噺を伝授してもらったが、晩年は訥々と語るいぶし銀のような芸で親子の情愛を演じ、高レベルの上方人情噺を観客に満喫させていた。

鬼あざみ清吉(おにあざみ せいきち);鬼坊主 清吉(おにぼうず せいきち、安永5年(1776年) - 文化2年6月27日(1805年7月23日))こと無宿清吉は、江戸時代の実在の盗賊。 牛込生まれ。父は漁師をしていたらしいが家は貧しく、京橋の加治屋という商家に奉公に出される。盗みで捕縛され、入墨を入れられ重敲(じゅうたたき。敲のうち重いもの。ムチ100を加えた)の刑を受けたが非人小屋に入って入墨を消し、日雇いとなった。しかし、入墨を消した罪で再び捕縛され、再度入墨を入れられた上で江戸追放の刑を受けた。しかしそんなものは鬼坊主にとって全く意味がなかったようで、数人の仲間と徒党を組み、路上強盗、引ったくり、武装強盗を連日にわたって繰り返し、懸命の捜査を行う町奉行や火付盗賊改方をあざ笑うかのごとく江戸中を蹂躙(じゅうりん)した。右浮世絵。
  あまりの神出鬼没振りにこの種の犯罪としては異例の人相書(普通人相書が出回る罪は当時一番重罪だった逆罪、すなわち主人や親を殺傷する罪である)が作成され、非常の捜査体制である捕物出役まで発動された。そのため上方へ逃亡し、文化2年(1805年)4月に彼の地で捕縛される(捕縛された場所については京都の大仏堂前と伊勢・津の二説ある)。 4月24日、江戸に護送されるが、有名人である鬼坊主を一目見ようと群衆が押し寄せた。鬼坊主は北町奉行小田切直年の尋問に対して罪を認め、2ヵ月後の6月27日、市中引き回しの上、小塚原で仲間2名(無宿左官粂こと粂次郎24歳、無宿三吉こと入墨吉五郎28歳)と共に獄門(斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を獄門台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰)にかけられた。享年30。

 墓所、東京都豊島区雑司が谷1丁目23−7  安永5年生まれ 文化2年丑年6月29日没 行年30才。

 「すり抜け」(穴や隙間、本来通り抜けられない壁などを通り抜けてしまうこと)の名人で全国各地を股にかけ窃盗を繰り返していた。 江戸時代、お墓には「清吉大明神」ののぼりが立てられご利益にあやかろうと昔は博打打ちが、今では自首するまで運良く捕まらなかった事から、志望校に運良く合格するとのいわれてから受験生が、鼠小僧次郎吉と同じように墓石を削りもって帰るため、墓の上部が欠けています。
  辞世の句 「武蔵野に はびこる程の鬼薊 今日の暑さに 枝葉しほるる」。

鬼あざみ;1.キク科の多年草。日本特産で、本州の山中に自生。高さ0.5~1m。全体に毛が多い。葉は基部が広く、縁に長いとげがある。6~9月ごろ、粘りけのある紫色の頭状花をつける。
 2. 一般に、夏から秋に大形のたくましい花を開くアザミ。《季 秋》
 3. 大形で、葉の鋸歯の鋭いアザミの仲間を総称して示す通俗名。
 4.薊の種類はいろいろあり、どれもよく似ていて分類が難しい。日本だけでも 約60種類も・・・。
   「野薊」(のあざみ)、
春咲きのアザミ。 それ以外のアザミは、夏から秋にかけて咲く。
   「野原薊」(のはらあざみ)。
   「アメリカ鬼薊」(アメリカおにあざみ)等々・・・

 アザミ。向島百花園にて。2022.10.追記。

継子(ままこ);親子の関係にあって、両親のどちらかと血のつながりを持たない子。配偶者の子で、自分の実子でないもの。ままこ。
 継子も継母も血が繋がっていないので、変な遠慮や甘えが出来ないので空々しいところが出たりしてしまいます。どうしてもしっくりとしない部分が出てしまいますが、それもそうだと割り切るのも一つに手かも知れません。おまささんのように。

継母(ままはは); 血のつながっていない母。父の後添いの妻。けいぼ。父の妻で、実母や養母ではない者。父の後妻。

 夫の先妻の子と後妻、あるいは、妻の先夫の子と後夫との関係を継親(母または父)子関係という。明治民法の下では、継親子が同じ家に属していた場合には、その間に当然法律上の親子関係を認めていた。もともと家族制度に基づくものであり、1948年(昭和23)の民法改正によりこの取扱いは廃止され、現在では単なる姻族1親等の関係にとどまっている。したがって、継子は継親の親権に服さず、相続権もない。ただ直系姻族の関係にあるため婚姻することはできず(民法735条)、特別の事情がある場合には扶養の義務を負う(同法877条2項)。継親(ことに継父)が継子(妻の連れ子)を養子とする例も増えており、そうすれば、継子は継親の親族との間にも親族関係を有することとなる。明治民法下の嫡母庶子関係も、一種の継母子関係であった。
 日本大百科全書(ニッポニカ)

家主(やぬし);近世、地主や貸家の持ち主の代わりに、貸家の世話や取り締まりをする者。やぬし。大家。差配(さはい)。
  主人不在の家屋敷を預かり、その管理・維持に携わる管理人のこと。家主(やぬし、いえぬし)、屋代(やしろ)、留守居(るすい)、大家(おおや)などとも呼ばれた。日本の近世社会は、家屋敷の所持者である家持を本来の正規の構成員として成立していたが、なんらかの事由で家屋敷の主人が長期にわたって不在となる場合、不在中の主人に委嘱され、家屋敷の管理・維持にあたるのが、家守の基本的性格である。

  長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。「家主」や「家守(やもり)」とも呼ばれていたが、家守が一番仕事の内容に近いだろう。
  江戸時代の大家には別の顔もあった。地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。大家はたいがい、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。近くに住んで、常に睨みをきかせているわけだから「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉が生まれた。
  大家の職制
   * 大家が五人組を構成しその中から月交代で月行事(がちぎょうじ)を選び町政に当たった。
   * 町触れ伝達。
   * 人別帳調査。
   * 火消人足の差配。
   * 火の番と夜回り。
   * 店子の身元調査と身元保証人の確定。
   * 諸願いや家屋敷売買の書類への連印。
   * 上下水道や井戸の修理、道路の修繕。
   * 長屋の住人の世話を焼いたり、喧嘩・口論の仲裁。冠婚葬祭の対応。
   * 店子が訴訟などで町奉行所へ出頭する際の付き添い。
   * 家賃を集金したり長屋全体の管理業務。

  大家の余録として、長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。 長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ肥料として買いに来るのです。 ゴミもそうです。売上金は暮れの店子に配る餅代にその一部を当てました。
 落語「裸の嫁入れ」から孫引き。

小口(こぐち);小さな入口のこと。路地の小口。戸口ではないかとの説もある。

こかされた;倒された。転ばされた。

出商売(でしょうばい);であきない。出歩いて商売すること。行商。
 例:棒手振り等の商人。大工・左官・庭師などの職人。下駄の歯入れ屋、たがや、ラオヤ等の修理業者等。

信楽餅屋(しがらき もちや);しがらき餅とも信楽餅ともいいます。コレ、関西で夏に見かけるお菓子です。 道明寺粉(もち米を乾飯にして砕いたもの)を筒状の袋にいれて茹でて、茹で上がったものを冷やしてから輪切りにして食べる。 お味は、まあ、ちょっと食感の違う餅にきな粉をかけて食べたような味。夏場の暑い時には美味しい、夏場に冷たいものにきな粉をかけて食べるって事で「わらび餅」の食感違い、形状違いって感じです。昔は、水桶から取り出して糸で切って売ってました。
 なんでしがらきもちかというと信楽の名産と言うわけでなく、あのたぬきの置物の信楽焼きの生地(表面)に半殺し状態(おはぎのように米の粒が残っている状態)が似ているからです。

嬶罰(かかばち);大切な奥様を大事にしないと奥様のバチが当たる。天の怒り地の祟り、親罰、子罰、嬶罰のと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒かれておりますが、近頃の人間は頓と相手にしなくなりました。(鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著))。

風呂屋(ふろや);江戸では湯屋と言いました。大坂の西沢一鳳の記録『皇都午睡』によると、
  『銭湯は大体一つの町に二軒は有ります。門口には、男湯・女湯と並んであって、入り口を入ると湯銭を払う番
 台があります。番台は男湯も女湯も兼ねていて、歯磨き・楊枝・膏薬・米ぬか等も売っています。浴槽も中
 が狭くて、底が深く腰掛けもありません。流し場との境にある戸が低く(石榴口)、浴槽の中は暗く昼間でも顔が
 見えないぐらいです。湯は熱く、とても熱いので入っていられず、身体をしめらす程度です。番台のそばには、八
 文払うと二階に上がる大段梯子が有り、二階があるのは男湯だけで、欄干が付いています。座敷には仕切りが
 なく、碁や将棋の関屋に似ています。二階に居る番頭は、客が上がってくれば茶を入れてくれます。菓子や羊 
 羹、鮨などが重箱に入っています。鏡・櫛・爪取り・ハサミなども置いて有ります。若い者や勤番の侍などはこの
 二階で遊びます。まるで温泉湯治場のようです』。

  

 湯屋の洗い場。鍬形蕙斎(けいさい)画「近世職人尽絵詞」 東京国立博物館蔵。 正面奥が石榴口(ざくろぐち)。右手が上がり際に浴びる浄湯(おかゆ)。爪を切る男や軽石でかかとをこする男が描かれています。

 入浴料は、寛永年間(1624-44)から明和年間(1764-72)の末まで、大人6文・小人4文。寛政6年(1794)から、大人10文・小人6文。天保年間(1830-44)になって、大人10文・小人8文であった。
 文化5年(1808)、江戸の湯屋十組(とくみなかま)が成立した時、男女両風呂371株(71%)、男風呂141株(27%)、女風呂11株(2%)、合計523株でした。これで分かるようにほとんどが混浴だったのです。幕府の禁令が出されたが、混浴を完全に無くすことが出来なかった。文化年間(1804-18)には、江戸で600軒余を越える銭湯が営業していました。

■勘当(かんどう);近世以降には親や上位者が下位者の縁を切るという意味で用いられた。類義語の久離は、親族一同との関係の断絶を言い渡す場合に用いられる。なお、江戸時代の勘当は、本来、奉行所に届け出て公式に親子関係を断つものだが、公にせず懲戒的な意味を持つ内証勘当も行われた。
 江戸時代においては、親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。復縁する場合は帳付けを無効にする(帳消し)ことが、現在の「帳消し」の語源となった。ただし、復縁する場合も同様の手続きを必要とした事から、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、人別帳上は親子のままという事もあったという。人別帳に「旧離」と書かれた札(付箋)を付ける事から、「札付きのワル」ということばが生まれた。 

戎橋(えびすばし);大阪市中央区の道頓堀川に架かる心斎橋筋・戎橋筋の橋。江戸時代にはこのルートから西成郡難波村・今宮村を通って今宮戎神社に向かったとされるので、「戎橋」の名前の由来(別説有り)になった。
 大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が南海難波駅前まで伸び、人通りが多い。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットにもなっており、1日平均20万人(休日は35万人)が戎橋を通行している。

 戎橋夜景

 今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)は、大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10にある神社。大阪七福神の恵比寿を祀る。商売繁盛の神様「えべっさん」として知られ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催される。地元では単に「戎神社」と言えば当社の事を指す。

一期(いちご);1 生まれてから死ぬまで。一生。一生涯。
 2 死に際した時。臨終。最期 (さいご) 。「―に臨んで」
 3 一生に一度しかないようなこと。一生にかかわるようなこと。「―の御恩」



                                                            2022年6月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system