落語「寿命」の舞台を行く 桂福団治の噺、「寿命」(じゅみょう)より
■寿命(じみょう);命のある間の長さ。齢(ヨワイ)。生命。「―が尽きる」。 転じて、物が使用され得る期間。
■長町裏(なまがまちうら);現在の日本橋一丁目から今宮戎に続く恵比寿町にかけての堺筋が「長町」。今でこそ大阪のミナミと呼ばれる繁華街のこのあたり、
実はこの江戸時代には随分寂しい所でした。現在の千日前のビックカメラのあたり、
ここは江戸時代は江戸の鈴ヶ森と並ぶ、上方の刑場でした。
罪人が首を切られてこの土地に埋められかなり広い範囲でお墓がつづいていた千日墓、と呼ばれていました。
ですから、今の千日前通りから南はそう云った人たちが仕事をしていた箇所で人別帳に記載されない人達の住家となっていた場所です。
■水売り(みずうり);水質の悪いことや、水量の少ないことなどから、日本をはじめ諸国にこの商売がみられた。フランスでは16世紀に飲み水の不足から水売りがいた。アメリカの開拓時代には水売りの馬車が走っていた。中国の清(しん)代に、北京(ペキン)では良質の飲料水が乏しいため倒水的とよばれる水売りがいた。彼らは一輪車の上に井戸から汲(く)み上げた水を入れた桶(おけ)をのせ、各戸へ売り歩いた。日本では離島に水売り船が回ることがあった。江戸時代には、江戸、京坂の路傍で水を売った。その水の中には砂糖や、寒晒粉(かんざらしこ)でつくった団子を入れた。今日でもトルコ、インド、中近東などの国々では水売りがみられる。
大坂の井戸水には鉄気(かなけ)が多く、飲用には適さなかったため、飲み水は大川(淀川)の水が利用されていました。水売りという商売が成立していて。玄関の軒先に「水入用」の札を下げておくと、水売りが立ち寄ってくれたそうです。
水売りから買い求めた水は、走りの脇にある水壷にため、ひしゃくで汲んで大切に使っていました。
水の都と呼ばれる大阪は、淀川をはじめとする河川の水に恵まれ、水道ができるまでは川の水を生活用水として利用していました。しかし、明治初期に、コレラなどの伝染病の流行や大火災が続発したことにより、衛生面・防火面から水道布設を望む声が高まり、明治28年11月13日、旧淀川左岸の桜の宮に水源池を設け、大阪城内の配水池から自然流下により給水を開始しました。その創設以後、9回もの拡張事業を実施し、量的拡張の時代から質的向上の維持管理時代に転換してからは、経年設備の更新などを行い、平成12年3月には政令指定都市では初めて高度浄水処理水の100%市内全量給水を開始しました。
■淀川(よどがわ);淀川は、その源を滋賀県山間部に発する大小支川を琵琶湖に集め、大津市から河谷状となって南流し、桂川と木津川をあわせて大阪平野を西南に流れます。途中、神崎川と大川(旧淀川)を分派して大阪湾に注ぐ一級河川です。
その幹川流路延長は75km、流域面積8,240km2にも及び、大阪・兵庫・京都・滋賀・奈良・三重の2府4県にまたがり、近畿地方の社会・経済・文化の基盤を支えています。
淀川流域にかかる自治体の総面積のうち、天然林が約31%、人工林が約26%、その他を含めて全体で約60%を森林が占めており、1900年代以降では最も面積が多くなっています。
淀川上流の琵琶湖から流れ出た水は、瀬田川、宇治川と名前を変え桂川や木津川合流し、淀川となり大阪湾へ注いでいます。
(河川法では瀬田川、宇治川を含めて淀川と定められています。)
■堂島川(どうじまがわ);「淀川」は、「毛馬水門」の所で、「淀川」から「大川」へ分岐する(「大川」の方が本来の「淀川」なので、「大川」は「旧淀川」とも呼ばれている)。「大川」は、「中之島」で北の「堂島川」、南の「土佐堀川」に分かれる。「中之島」より下流になると「安治川」と名を変えてゆく。明治~昭和初期の名所絵葉書からも、「堂島川」「土佐堀川」沿いは大阪の商業の中心地だったことがうかがえる。
右図、1730(享保15)年、蔵屋敷の集まる大坂「堂島川」のたもとに、「堂島米会所」が開設された。右図。これは、世界初の本格的な先物取引市場といわれている。その日の相場は、櫓や山の上に中継所を設けて暗号式に旗を振って伝え、リレーで日本各地に知らせた。明治初期の錦絵にも、旗を振るための櫓が右下に描かれている。
■水舟(みずぶね);飲料水を運ぶ船。水取り船。水伝馬 (みずてんま) 。下左図。
上右図、自衛隊にもありました、310トン型水船で、停泊中の艦艇への真水補給、補給物資の供給を主眼として、各基地の港務隊に配備されている。水タンク、給水ポンプ2基、ポンプ用動力、ホースなどを装備する。渇水や災害時には災害派遣任務を行う。満載航行時に波が打ち込み船体が沈降することを防ぐため、船首にブルワークを備える。船尾に2.3トンの補給物資を搭載できるスペースを有する。
■船場(せんば);船場の範囲は、以下の河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)、南北約2km、東西約1kmの四角形の地域である。
1583年に豊臣秀吉によって大坂城の築城および大坂城下の開発が開始された。豊臣初期の大坂城下の中心は、大坂城以前にあった旧石山寺内・港湾都市である港の渡辺津 (渡辺津以前は難波津・住吉津が存在した) ・玉造といった上町で、また、大川を挟んで上町の北に位置する中島寺内の開発も1585年から開始された。上町の西に位置する船場の開発はこの時期はまだ萌芽的なものであったが、1598年から始まった大坂城三の丸の造営により、城内となった渡辺・玉造の地に居た町人の移転先として船場の開発が本格化する。大坂の陣後、松平忠明による復興の際に島之内と下船場の開発が本格化し、さらに渡辺・玉造の地へ再度町人地が置かれることとなった。また、淀屋常安による中之島の開発も始まり、幕府直轄地となる1619年頃には、城下とは別の町とみなされていた旧中島寺内を天満として大坂城下に取り込み、以降の大坂城下は船場を中心に展開されるようになった。 ウイキペディア
■島之内(しまのうち);島之内の範囲は、以下の人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)、南北約650m、東西約1.2kmの四角形の地域である。
現在の町名、
島之内(しまのうち) - 堺筋以東。
東心斎橋(ひがししんさいばし)。
宗右衛門町(そうえもんちょう)。
心斎橋筋(しんさいばしすじ)。
西心斎橋(にししんさいばし) - 御堂筋以西。
■担ぎ桶(かつぎおけ);水を入れた桶をてんびん棒などで担いだり荷車に積んで飲料用の水を売り歩く商売をいう。日本では水屋ともいった。水道が普及する以前は,水はもっぱら井戸に頼るしかなかったが,水質の悪い所や井戸に遠い家では水を1荷いくらで水売から買った。明治のころ,東京の下町あたりではだいたい1荷1銭くらいで朝夕2回定期的に買う家が多かったようである。井戸の便のよい家でも,涸水時には水が濁るので水こし用の甕を台所において使ったし,またふだんでも洗顔後の水をまき水に使うなど水をたいせつに扱っていた。
■御寮人(ごりょん);上方(かみがた)で、中流家庭の若い妻の敬称。ごりょんさん。
■嬢(いと)はん;娘、お嬢さん。上方の商家で使われていた言葉。「いとさん」の方が上品な言い方で、「いとはん」はくだけた言い方。「いとやん」はさらにくだけた言い方。敬称略したものが「いと」。もともとは、男女関係なく子供のことをいった。近畿以外でも使われていた語。近年では「娘」「女の子ぉ」とは言うが、東京のように「お嬢さん」「ギャル」などとは言わない。
■痔病(じびょう);痔には、主にいぼ状のはれができる「いぼ痔(痔核)」、肛門の皮膚が切れる「きれ痔(裂肛)」、肛門に膿のトンネルができる「痔ろう」の3種類があります。
このうち、いぼ痔には、肛門内側にできる「内痔核(ないじかく)」と、肛門の外側にできる「外痔核(がいじかく)」とがあります。直腸粘膜側の組織には知覚神経が通っていないため、肛門内側にできるいぼ痔(内痔核)では痛みを感じないのですが、歯状線より下の皮膚部分には知覚神経が多く通っていますので、きれ痔(裂肛)や、肛門の外側にできるいぼ痔(外痔核)には痛みを感じます。このように痛みの有無で痔のおおよその位置がわかります。
また、歯状線にあるくぼみに細菌が侵入して感染し、化膿した膿がトンネルを作って貫通すると、 「痔ろう」になります。
■信濃路(しなのじ);[1] 〘名〙 信濃国(長野県)の道。また、信濃国へ通じる道。主に、木曾街道をいう。上代、文武天皇の大宝二年(702)から、元明天皇の和銅六年(713)まで、あしかけ12年かかって完成したもの。しなぬじ。
■帰命寿命頂礼(きみょう じみょう ちょうらい);身命をささげて仏陀または三宝に帰依すること。または、仏陀の教命に帰順すること。仏を礼拝する時に唱える語で、帰命して自分の頭を仏の足につけて礼拝する最敬礼。
■お地蔵さん;仏教の菩薩(ぼさつ)の一つ。地蔵菩薩の略。釈迦入滅後、弥勒(みろく)が出現するまでの間、現世にとどまって衆生を救い、また冥府の救済者とされる。中国では唐代から、日本では平安時代から、その信仰が盛んとなり、僧形の像が多く作られた。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つのが普通。六道(ろくどう)を守護する地蔵(六地蔵)の信仰から、道祖神、庚申信仰などと結合し、民間に観音と並んで広く信仰された。また、子どもの災厄を守護するとも信じられ、賽(さい)の河原の説話などを生んだ。鎌倉~江戸時代には種々の民間説話と習合して、延命地蔵、子安地蔵、勝軍地蔵などさまざまの名を冠した地蔵が生まれた。毎月24日に地蔵講をする地方は多い。
2022年7月記 |