落語「磯の鮑」の舞台を行く
   

 

 林家正蔵(彦六)の噺、「磯の鮑」(いそのあわび)より。上方では「わさび茶屋」。


 

 「源さん、最近は吉原には行かないかい?」、「ご無沙汰しているね」、「じゃ~、儲けは無いね」、「女郎で飯食っているようなもんだからね」。それを聞きつけて、与太郎さんが、吉原で飯を食う方法を二人に尋ねた。「お女郎で飯を食うには、先生のところで教えてもらわなくてはならない」、「どこに居るの?」、「我々が紹介状を書けば教えてくれる。知ってるだろう、新道表の梅村さんの隠居が先生だ。そこに行ったって教えてくれないよ。何だって、女郎から仕送りが来ようというもんだ。だから、おひつにご飯を一杯詰めて梅干し入れて持って行く、教えてくれと言っても『誰かに騙されてきたな』と言うから、『飯は持ってきたから、教えてくれるまで動かない』と言えば、教えてくれる」。

 「ごめんください」、「はいはい」、「町内の源さんと辰つあんに紹介されて、手紙を持って来ました」、「どれどれ、『早速、これなる者は、至って愚かなる者で・・・、貴殿を女郎買いの師匠と差し向け候の間、おからかいの上お返しください』。なんだな~、暇人だな~。あなた、女郎買いの師匠なんていないよ」、「二人の言ったとおりだ。おまんまを持って来たんだ。で、弟子にしてもらおう」、「手が回ってるな。しょうがない、吉原の遊びの話をしましょうか。それを聞いて帰ってくださいよ」。

 「吉原はピンからキリまであって、金を使えば良いもんでなく、使わなくても楽しく遊べるもんだ。夕刻過ぎに郭内を歩くと、牛太郎が世話をしてくれる。『如何様ですか?お遊びを願いたいのですが・・・』と言われたら『如何様ですか』に対してシャレるんだ。『如何様ですかと言ったが百万石かい』と言う。『上がってくれ』と言われるから、『上がったら四方が見えるのかぃ、お富士山みたいだね』。こんな冗談を言いながら広い階段をトントントンと上がって、突き当たりの部屋、引き付けに入る。オバさん、いちめい遣り手が出て来て、女の子の好みを聞くから、張り見世の奥が後尻と言うところでお見立てをする。上(かみ)の女は御職と言ってケンが有っていけない。二番目の女も競っているからつまらない。三番目が面白く一番イイ。オバサンが花魁を連れてくる。長煙管で煙草を点けてくれるが、火玉が”やぁ~とこせ”と踊るように吸ってはいけない。一服吸ったら返す。ここで一言いう。『花魁、私を知るまいが、私はよ~く知っている。前から上がろうと思っていたが、折りが無くて上がれなかったが、やっとの思いで上がってきた。私の方はこれ程思っているが、お前の方では想ってくれまい。これが本当の〈磯の鮑の片思いだよ〉』と言っておいて背中をポンと叩いてごらん。このお客さんは粋な人だよと思って、裏から馴染みとなって了見が分かってくるから、遊びも面白くなってくる。分かったか?」。
 「難しいです。見世に上がった後は花魁になんと言います?」、「『花魁、私を知るまいが・・・、』」、「そこのところ書き留めますから・・・。分かりましたから、早速行ってきます」、「おいおい、このお櫃はどうするんだ」、「あげます」。

 与太郎さん、日が暮れた頃吉原にやって来た。「如何様ですか?」、「これだこれだ、如何様(い加賀様)は百万石だ」、「洒落ですか。どうぞお上がりください」、「上がったら、方々が見渡せるかい。お富士山みたいだな」、「ではお上がりください」、「広い階段を上がると、目を回すだろ」、「て、言いますと」、「目を回すとこに入るだろう」、「引き付けですか」、「そうそう、オバさんが来るだろう」。

 「こんばんは」、「お見立てするんだろう。ハトのケツだな・・・、アッ、後尻だ。あすこから覗いて上(かみ)から三枚目」、「あら、まだ見ないうちに・・・、御通家ですこと。〈多賀袖〉(たがそで)さんですよ。今連れてきますね」。
 「いらっしゃい」、「花魁来たな。ま、一服おくれよ」、「失礼しました。私は煙草をやらないもので」、「有り難う。これを、奴さんでなく・・・、深川でなく・・・、そうそう、やぁ~とこせを踊っては駄目なんだ。一口吸ったら返すんだ」、「受け取りましたよ」、「花魁、私のことは知らないだろうけれど・・・」、「知ってますよ。お目に掛かっているじゃないの」、「そんな、余計なこと言っちゃダメだよ」、「ここは難しいとこなんだから。そうだ、書き付けを見よう。あら~、何処かで無くしてしまったぞ。大変だ。花魁、私を知るまいが、私はよ~く知っているよ。こないだから上がろうと思っていたが、竹の皮ではなく・・・、かん袋でなく、そうだ、折りだ。いい折りが無くて上がれなかったが、今夜はやっとの思いで上がってきた、私の方でこれ程想っているのにお前の方では想ってくれないだろう」、「想ってまさ~ね」、「余計なことは言っちゃダメだ。ここからが肝心なんだ。これが本当の磯の・・・、あらめでなく、磯のワサビ。ワサビだワサビだ」、「痛いわね~、強く叩いて。涙が出ますよ」、「おぉ!今のワサビが利いたんだ」。

 



ことば

■この噺は、吉原の入門講座と同じように、吉原を丁寧に細かく説明しています。彦六には珍しく、全編笑いの渦になっています。また、マクラも長く吉原のことをレクチャーしています。では、そのマクラから、

 吉原と言うところは、ご婦人方は関係御座いませんが、殿方は二度や三度足を踏み入れたことが有る場所です。ここは遊ばなくても良いのです。見世は上中下の三種類に分かれています。「中・下」は格子のハマった張り見世と言って、細長い部屋に女の子がズラリと並んでいます。表通りに面していますから中が良く見えて、「どうだい、5人売れ残っている女だってイイ女だよ。俺は左から3人目の子が良いね」、「そうか、人の好みは色々だな。俺は右から3人目だ」。これは同じ女ですよ。訳がわかんなくなっちゃうんです。
 一晩中、郭内を歩いて、冷やかして家に帰って寝ちゃう、と言うのも有る。これは健全娯楽ですよね~。地廻りは吉原のことをよく知っていて、「あすこの花魁は親孝行だとか、どこどこの見世に身を沈めているが、あれはしたたかもんだぜ」等と知っています。
 その当時、羅生門河岸と言うところが御座いまして、後にはトンネル横町と言いました。前の見世のヒサシがこちらのヒサシに合わさって、雨は濡れませんし、陽が差さないので暗い。トンネルです。ここの女の子の顔を観たら誰も上がらない。そこで、腕力に訴えます。襟首つかまえて放り込むとか、格子の間から手が出て掴まると連れ込まれてしまいます。誰言うとはなしに羅生門河岸と言った。地廻りもよく知ってて足を踏み入れませんが、たまには足を踏み入れます。「回れ回れ」、「籐どん、どーゆう訳か、あいつが来るとお茶挽いてしまうんだよ。今夜は揚げちゃっておくれ」、「へいッ」。「見世張ってるね」、「一服お上がりなさぁ~い」、「ご馳走になるよ。おいおい、手を放しておくれよ。手が茄子の古漬けみたいな色になってきたよ」、「如何ですか。花魁があんな風にお誘いなんですから・・・」、「若い衆、前で花魁が引っ張っているんだよ、後ろで押してどうなるんだよ。引っ越しの荷車が九段坂に差しかかったみたいだ~」、見世の者は「え~、いらっしゃいませ」。いらしたんじゃない、転がし込まれたんです。
 馴染みになると、お土産を贈ってくれるものです。前の客が忘れていった、煙草入れだとか、お盆や正月にもらった茶碗などを、渡したりするものです。「私だと思って大事にしてちょうだい」、「女がこれだけの物をくれるんだ」、使ったお金のことは忘れて、儲かったと言いふらします。女郎買いを儲かったと心違いをしているのがいます。

 心違いのここから、本題に入っていきます。マクラの部分から、まず解説していきます。

吉原(よしわら);細かく書き始めたら本の一冊や二冊は書けるくらい、江戸の文化に深く根ざしていました。まずは、江戸が出来たのは家康が慶長8年(1603)に江戸に幕府を開きました。人家もまばらな寒村でしたから、各地から商人、労働者、武家が江戸に入ってきて繁栄を極めるのですが、男連中が主ですから、自然春を売る女達も集まってきました。当然、江戸の各所に無差別に傾城町が出来上がっていきました。
 慶長17年(1612)頃、庄司甚内(甚右衛門)が代表となって、幕府に傾城(けいせい)町の設立を願い出たのです。許可願いを出した6年後の元和3年(1617)3月、葺屋(ふきや)町に二丁四方の地面を下付されて傾城町免許の沙汰があって、甚右衛門はそこの総名主に命じられた。この地をアシが生い茂るのでアシ屋町と言ったが、縁起を担いで吉原と言った。ここを元吉原と言います。ここの郭内には160軒の揚屋と妓楼があって、遊女は太夫(たゆう)・格子(こうし)・端(はした)の三階級。人数は千人近くいました。
 その約40年後、明暦2年(1656)10月町奉行所に呼び出され、浅草の北側日本堤に5割増しの土地と金一万五百両を得て、移転を命じられ、翌年明暦の大火があり遅れたが、移転が完了し、ここを新吉原と呼ばれることになります。後年吉原と言えば新吉原を指します。落語の世界でも新吉原が舞台で、単に吉原と言います。また江戸の中心から見て北に有ったので、北廓、北、仲之町を約して中とも言われました。郭内は江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角(すみ)町の五丁町の他に揚屋(あげや)町が出来ました。ここの出入りには大門(おおもん)口しかなく、正面の奥まで続く道を仲之町と言った。
右図:吉原地図、下部の赤丸印が羅生門河岸。

見世は上中下の三種類;太夫が居たような大見世は茶屋を通した客しか遊ばせなかった。大部分は中の部類に入るのですが、下記の張り見世になっていました。張り見世も上中下があって、遊女の格が違い、部屋の作り、サービス、料金が変わってきました。遊女の数は、平均2000人から3000人前後ですが、安政(1854-59)の頃には3800余人もいたと記録に残っています。 

「三浦屋四ッ刻の図」 江戸吉原図聚 三谷一馬画 クリックすると大きな図になります。

格子のハマった張り見世;妓楼の店先は籬(まがき)と言われる格子がハマっています。現代で言えばショーウインドーのような物で、その細長い部屋の中に遊女が座って、お客に媚びを売っていました。彦六は上(かみ)から順番に格下の順に遊女が並んでいるように噺をしていますが、間違いで、中央にトップの遊女、その両脇に順番に格順に並んでいました。
 籬は全面に格子がハマっているのを惣籬(そうまがき=大見世)、1/4だけ格子のないのを半籬(中見世)、下半分しか籬がないのを惣半籬(小見世)と言って、見世の格付け順に籬の数が減り、遊女の料金も安くなりました。と言うより安い遊女しかいませんでした。

右図:籬内の張り見世。 江戸吉原図聚 三谷一馬画。

冷やかし;張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見(すけん)。(広辞苑)。志ん生は吉原の近くに淺草紙(トイレで使われる落とし紙)を作るところがあって、そこの職人さんが、古紙を水に浸けて冷やけるまでの時間を吉原見物したので、言われた。と、言います。登楼する客より冷やかしの客の方が多かった。その為、吉原は大いに賑わっていた(ように見えた)。今のデパートや銀座でもウインドーショッピングや銀ブラが、街や商店街の賑わいを醸しているようなものです。
 「素見が七分買うやつが三分なり」
 「心ではあいつをなあと見たばかり」 

地廻り(じまわり);この連中も冷やかしの一部です。吉原の近隣に住んでいて、毎夜のごとく現れて女郎達の品定めをした、ちょい悪男達です。
 「地廻りは細見より確かなり

 細見は吉原の案内書で、遊女の格や料金などを記したハンドブック。

羅生門河岸(らしょうもんがし);吉原の南端、お歯黒ドブに接して建っていた、最下級の見世。噺にもあるように遊女の顔を見たのでは入る客はないので、力ずくで、引きずり込んだ。源頼光の臣渡辺綱が羅生門にすむ鬼神と闘って、その片腕を斬り落したことから名が付いた。古今亭志ん生の「お直し」にその辺の雰囲気が伝わってきます。

お茶挽く(おちゃをひく);元来は江戸の吉原を作ったときの条件の一つで、太夫などの上級遊女にお茶の接客を指示し、その遊女は前夜から客を取らず茶を挽いたりして準備した。遊女にしてみれば光栄なことであったが、後年、客が付かずアブレてしまった遊女のことを、お茶を挽く(お茶を引く)と言うようになってしまった。

引っ越しの荷車が九段坂に差しかかった;江戸の街は手の平を広げたように、高台が張り出していて低地に下る坂道はけっこう急でした。江戸城の北側を東西に抜ける幹線道路は下町の神田方向から来ると急坂の九段坂に来ます。この坂を上がると明治2年に創建された靖国神社があり、現在この道を靖国通りと言います。この坂道がきつかったので、坂の下に荷車を押す男達がいて、難儀している車があると、押してあげて手間賃をもらって生活を立てていました。

ここから本文の解説

新道表(しんみちおもて。じんみちおもて);江戸の街は方眼状になっていますから、その間を抜けて向こう側に抜けるには細い抜け道が必要になってきます。その新しく出来た道を新道といい、その表角に隠居は住まっていたのでしょう。表角は財力が無いと住めません。ですから、若旦那に任せて自分は楽隠居をしているのでしょう。

郭内(かくない);楼郭内。吉原の中を指します。郭とは城郭の郭で、敷地の周りはお城の濠と同じお歯黒ドブが掘ってありました。お客の管理と遊女の逃げ出し防止のため、大門(おおもん)一ヶ所のみが出入り口になっています。

牛太郎(ぎゅうたろう);妓夫(ぎふ)とも。はしょって、ギュウと言います。見世の客引きから客の対応、夜になれば見世の切り回しもする男手。呼ぶときは男衆(おとこし)さん、または若い衆(わかいし)さんと言います。歳取っても若い衆と言います。

広い階段(ひろいかいだん);吉原の見世の一階は見世の者が使う、食事処、湯場、帳場(内所)、台所等があって、客室は2階、及び3階にあって、入口を入ったら裏向きになった幅の広い階段を上がります。

引き付け;二階に上がったらこの部屋に入って、遣り手と値段から、酒、料理、芸者、女郎の見立てをしてもらう部屋。与太郎さん、目を回す部屋だといっています。

遣り手(やりて);引き付けにいる女の子やお客をコントロールする女性で俗にオバさん。志ん生はやり手というが、もらいたがるオバさんだといっています。ここでけちったり、心付けを渡さないと、後でつまらないことで意地悪されてしまいます。

張り見世の奥が後尻(あとじり);張り見世は女郎が並んで客引きをするところです。その後ろには立派な絵を描いた襖が有ります。そこから女郎達は出入りしますが、その位置が後尻です。ここから覗いてお見立てをするのですが、与太郎さん、見もせずにお見立てしてしまいます。

御職と女郎(おしょくとじょろう);享保(1716-35)頃は、高尾、薄雲などの太夫が居たが、宝暦(1751-63)に入ると最後の太夫、花紫太夫で幕を閉じます。格子女郎も消えて行きます。その下の散茶女郎の中でも、呼出し、昼三(ちゅうさん)、附廻し(つけまわし)が上級遊女として登場します。
 この噺の中では全て女郎ですが、その店でのトップが御職と呼ばれました。実際は一人しかいないのですが、お客とすればヨイショも兼ねて、上級遊女をみんな御職と呼びました。

長煙管で煙草を点けてくれる;女郎の必需品で、煙草を点けて客にサービスします。キセルにもピンからキリまであります。

 

やぁ~とこせ大森の郷土玩具で、「住吉踊り」 と呼ばれることもある物。笹竹の先に大きな輪が下がり、その輪にさらに数体の小さな人形が下がっている。これを手に持って揺らすと、その動きが伝承舞踊の「住吉踊り」に見えるようになっているもの。材料は麦藁で、一種の藁細工です。今は絶滅して現物も作り手もいません。
書籍『品川の民俗と文化』(昭和45年・品川区刊)より 右図。

磯の鮑の片思い(鮑が片貝であることから) 自分が相手を思うだけで、相手が自分を思わないことにいう。「鮑の片思い」とも。磯の鮑の片思いとは、片思いをしゃれて言うことば。アワビはミミガイ科の巻き貝で、殻が二枚貝の片方だけのように見えることから、「片貝」の「片」と「片思い」の「片」をかけて言ったもの。
 『万葉集』に『伊勢の白水郎の朝な夕なかづくてふ鮑の独念(かたおもひ)にして』(伊勢のアマが朝夕ごとに海に潜って取ってくるアワビのように私は片思いばかりしている)。という歌があるように、古くからあることわざ。
 落語「鮑のし」をご覧下さい。

裏から馴染みとなって;吉原で遊ぶとき、初めての時を初会、二会目に行くことを裏を返す、三会目になって初めて馴染みとなります。馴染みになるほど付き合うと、その後は深い楽しみか、生活を潰すかどちらかです。

お見立て女郎が並んでいるところで、好みの女を指名する事。または入店してからお店の紹介する女郎から好みの相方を指名する事。このお見立ての瞬間がなんともゾクゾク、ワクワクするのでしょうね。
落語「お見立て」より孫引き

御通家(ごつうか);人情の機微に通じた人。特に、花柳界の事情に通じている人。通客。粋人。

奴さん、深川でなく;両方とも踊りです。奴さんは、「え~、奴さん どちら行くぅ~、え~こらこら・・・」の唄に乗って踊られる住吉踊り。古今亭志ん朝が寄席で良く踊っていた。
深川は「猪牙(チョキ)で~ さっさぁ~ 行くのは深川通い さぁさ さって~・・・・」の唄に乗って踊られる住吉踊り。猪牙は、吉原通いで乗る、速度が出る舟。勘当舟とも言われた。形がイノシシの牙のように細身で尖っていて、左右に良く揺れる2人乗りの舟。
【寄席芸】住吉踊り・古今亭志ん朝ほか(1994年8月).がYouTubeで見られます。

竹の皮;物を包むのに筍の皮を使って包んだ。

かん袋;紙袋。

あらめ(荒布);褐藻類の多年生海藻。波の荒い外洋の低潮線以下に生ずる。全長1m余。茎は円柱状、その上端はやや扁平で、左右に分れ、さらに叉状に分岐して葉になる。食用・肥料となるほか、アルギン酸の原料とする。カジメは葉が羽状に裂け別種であるが、しばしば混同される。
右図:「あらめ」広辞苑。



                                                            2016年8月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system