落語「七度狐」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「七度狐」(しちどぎつね)より


 

 喜六・晴八と言う二人が旅に出ます。
 「腹減った。食べたばかりと言ったって腹が減った」、「あすこに、茶店が見える、何が出来るか見てきな」、「ダメだ。『ひとつせんめしやありや なきや』と書いてあるから休みだ」、「『一膳飯屋有り 柳屋』と書いてあるんだ」。
 「休ましてもらうが良いか」、「かまわんよ。座っても、自分の煙草を吸っても・・・」、「何か食べる物は無いかな」、「蒟蒻の煮た物。高野豆腐。お芋の煮たのは。牛蒡の煮たのは。魚の煮たのはどうだ」、「その魚貰おう。酒は有るか」、「地酒で『村さめ』、『庭さめ』、『直さめ』じゃな」、「『村さめ』はどんな酒だ」、「村を出たところで醒めるから村さめ」、「『庭さめ』は」、「庭に出たところで醒める」、「『直さめ』は」、「呑んだケツから醒める」、「親父、酒の中に水入れたな」、「いや~、水の中に酒入れた。ウソじゃ、ウソじゃ、やってみなされ」。
 「ここにすり鉢に紙がかぶせてあるのは何じゃい」、「イカの木の芽合いじゃ」、「これ二人前頼む」、「ダメじゃ。これは村のもめ事の手打ちに頼まれた物で売れないのじゃ」、「食べたくなるといけないので、笠かぶせておくから良いか」、「かまわんよ」、「で、食べ終わったら、走る癖がある。先に銭払っておく」。

 「喜六、店出るぞ。走れッ」。
 (下座から『韋駄天』の囃子が入る)「兄貴、横っ腹が痛くなってきた」、「そうか。このすり鉢を見ろ。笠をかぶせて一緒に持って来た」、「あの、イカの木の芽合いかッ。食べても良いか」、「全部食べてもいい。食べ終わったらすり鉢、どこかに放ってしまえ」。
 放った先に大きな狐が寝ていた。その狐の頭に当たりコブが・・・、「あの旅人に安穏に旅をさせるものかッ」。

 「旨かった」、「どうした、早く行け」、「兄貴、大きな川があるよ」、「三べんも来ているのにおかしいな。そうか、上で大雨が降って流れてきたな。渡ろう。石を放ってみな『ドボン』と言ったら深い、『チャブン』と言ったら浅い。投げてみな」、「兄貴、『バサバサ』と言ったよ」、「畑だったところだ。着物脱いで、フンドシも脱いで、頭にくくりつけ行くぞ」、「深いか、浅いか~」、「浅いぞ、浅いぞ」。
 「おーい、田の四郎、出て来いや。お前の麦畑踏み荒らしているのがいるぞッ。旅人が裸で歩き回っているぞ」、「コラッ、コラッ、ここはおらんとこの麦畑じゃ。何してる。前を隠せ。狐に悪さしたな」、「水が冷たかったんだ。上手く騙したな」。

 「兄貴、暗くなってきた。山道になってきて家が無くなってきたぞ」、「道を間違ったようだ。野宿しよう。オオカミが出るかも。喜六見てみろ、明かりがチラチラ見える」、「どこに?」、「指先をしっかり見てみろ」、「爪が生えてる」、「爪の先ッ」、「アカが溜まってる」、「明かりがチラチラ見えるだろ~」、「明かりは見えるがチラチラは見えん」。
 「山寺だ。汚い寺だな」、「尼寺だ。旅の者で、道に迷い一晩ご厄介になりたい」、「南無阿弥陀仏。尼寺で泊めることは出来ませんが、本堂でお通夜ならどうぞ」、「やっかいになります」、「お腹はすいていませんか。”べちょたれ雑炊”ならございます」、「べちょたれ雑炊?いただきます」、「庵主さん、口の中でジャリジャリするのは・・・」、「味噌が足り無かったので、裏山の赤土を・・・」、「かむと甘みが出るのは・・・」、「ワラを刻んで入れています」、「尻尾が出ていますが・・・」、「オタマジャクシが入っています」。
 「私は村のおさよ後家が亡くなったのでお念仏を唱えてきますので、お留守番を・・・」、「山の中の寂しい所で留守番とは・・・」、「お寺は寂しくはありません。賑やかです。裏の墓場から骸骨などが出て踊ります。本堂のお灯りが点いている内は大丈夫です。では、行ってきます」。「灯明は点いているか見てこい」、「兄貴、油はもう無いぞ」、「油をさがせ」、「油徳利あった。ジュッパチパチ、ジュッパチパチ」、「なにジュッパチパチ言わせてんだ」、「兄貴これ醤油」、「消えたッ」。
 「今晩わ、チョット開けて下さい。村の若い連中です」、「どうぞお入り下さい」、「庵主さんは?」、「おさよさんとか言う人に念仏を上げに・・・」、「道が違って途中ですれ違ってしまったんだ。婆さん、死んだんですが金に気が残って『金返せ、金返せ』と言い、棺桶に静かに収まってくれません。で、ここまで担いできたんです。持って帰っても、また来なくてはなりません。置いていきますからよろしく・・・」、「いらん、いらん」、「棺桶から出て来たら、コツンと棒で叩けば、大丈夫ですから・・・」。
 山の松風が凄まじく、二人は本堂の隅に縮こまっています。棺桶の蓋が、ビリバリ、バリボリ、蓋がパチンとはじけると、おさよ婆さんが「金返せ、金返せ」、「旅の者です。金は借りていません」、「顔を見せろ。見せなければこっちから行くぞ~」。

 「田の四郎よ、畦(あぜ)道でさっきの旅人が二人ペコペコしているが・・・」、「また騙されているんかいな」、「オイッ、コラッ、しっかりしろッ」、「お百姓ッ」、「ここにあったお寺は?」、「未だ騙されているかぃ。悪い狐だ。いっぺん騙されると七度(たび)騙されるんだ」。
 これから、騙されながら旅を続けます。七度狐の入り口でございます。

 



ことば

二代目 桂 小南(かつら こなん);(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。1939年(昭和14年)、三代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。太平洋戦争中は召集を受け、1945年(昭和20年)に復員した。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで二代目桂小文治の身内となる。1958年(昭和33年)9月、八代目桂文楽の好意で三代目桂小南を襲名して真打となった。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。
 独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。1969年(昭和44年)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、1968年(昭和43年)と1981年(昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、1989年(平成元年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1990年、紫綬褒章受章。 1996年(平成8年)に死去した。76歳没。  得意ネタは200を超えた。CBSソニーからLPレコードが残されている。特に「いかけ屋」は絶品。

出典;『七度狐』(しちどぎつね/ななたびきつね)または『七度狐庵寺潰し』(しちどぎつねあんでらつぶし)は上方落語の演目の一つで、原話は、寛政10年(1798年)に出版された笑話本・「無事志有意」の一遍である『野狐』。道中噺『東の旅』(本題『伊勢参宮神乃賑』)の一編。
 オチを、百姓が狐を追い詰めて「狐の尻尾を捕まえて、引っ張ると尻尾が抜けた。ハッと気がつくと、畑の大根を抜いていた」と、変えることもある。また、上方のサゲは「庵寺つぶす」とオチを付けることも有り、これは「あんだら尽くす(馬鹿な真似をするという意味)」をかけたもの。
 江戸話になって、小三治が「二人旅」で演っています。茶屋の部分をメインに楽しませます。

喜六・晴八(きろく・せいはち);上方落語ではいいコンビの二人です。喜六は漫才で言うボケで、晴八はツッコミです。江戸落語では、八っつあん・熊さんか、与太郎を交えた二人組なのでしょう。

茶店(ちゃみせ);中世から近代にかけて一般的であった、休憩所の一形態。休憩場所を提供するとともに、注文に応じて茶や和菓子を提供する飲食店、甘味処としても発達した。
 交通手段が徒歩に限られていた時代には、宿場および峠やその前後で見られ、これらを「水茶屋(みずぢゃや)」「掛茶屋(かけぢゃや)」「御茶屋(おちゃや)」と言い、街道筋の所定の休憩所であった。立場にあれば「立場茶屋(たてばぢゃや)」と呼ばれていた。店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してある事も多い。

 

左、木曾街道・上尾宿、英泉画。 右、東海道五十三次・袋井、広重画

蒟蒻の煮た物(こんにゃくのにたもの);弁当おかずにぴったりの「こんにゃくの甘辛味の炒り煮」。
 こんにゃくをメインのおかずにする。このことにこだわってたどり着いたのが‟にんにくバター醤油”。

 

 蒟蒻料理。二種。

高野豆腐(こうやどうふ);だしをたっぷり含んだ高野豆腐の煮物は、どんな季節でもおいしいもの。少し甘めに味付けをすることが美味しく作るコツです。
 高野豆腐は高野山で余った豆腐を外に出しておいたら凍った豆腐があった。これが「凍り豆腐(こおりどうふ)」。
 伊達政宗が、保存食を研究していて作り出した。これを「凍み豆腐(しみどうふ)」と呼びます。

 

 高野豆腐、料理二種。

お芋の煮たの(おいものにたの);里芋のトロンとした食感がたまらない。

 

 芋料理二種。

牛蒡の煮たの(ごぼうのにたの);
 

 牛蒡料理二種。

魚の煮たの(さかなのにたの);
 

 煮魚料理二種。茶店には当然、焼き魚もあったでしょう。目刺しとか塩鮭等です。

地酒(じざけ);特定の地域でつくられる日本酒。その土地の酒。一般に、全国的に流通する大手メーカーの製品や、日本酒の主産地である兵庫県の灘や京都府の伏見以外でつくられる日本酒をいう。

 造り酒屋は純粋に酒を造りそれを売っていた所という概念で、規模も必ずしも大きくなく、ときには蔵人が一人で営んでいて、場所も都市の中だけでなく農村部や山間部にも多かった。かなりさびれた街道沿いにも造り酒屋が点在していた様子が昔の紀行文などからうかがえる。 蔵や店舗は自前の所有であったが、たとえば、関東地方から東北地方に点在した江州蔵(ごうしゅうぐら)のように、はるか遠方に住む経営者が資本を持ち、派遣された蔵人が必要に応じて土地の労働者を季節雇用して営んでいるところもある。 江戸幕府の酒造統制や明治政府の造酒税増税に翻弄され、衰滅したり、再生したり、新しいものが生まれたりした。 バブル経済以後の地酒復興期における零細な地方蔵のように、現在もその流れは細々と続いている。

酒の中に水入れたな。いや~、水の中に酒入れた;日本酒は通常、焼酎やウイスキーのように呑むとき水で割ることはありません。それは蔵元で出来たとき、既に飲みやすいアルコール濃度になっているからで、改めて水で薄めることはしません。しかし、江戸時代や明治・大正・昭和の戦前までは、酒屋さん(酒の小売店)で、自分の独特なブレンドや割り水(加水)をして販売していました。その方が旨いからとか、呑みやすいとか、安価になるとか、色々理由はありますが、それが現実でした。酒屋さんは樽で仕入れ2~3種の酒をブレンドしたのですが、今ではビンにシールされた状態で販売されますから水っぽい酒は売ることが出来ません。飲み手も価格をみればそんなに苦情は出ませんし、元の味が分からないので、言いようが有りません。薄めすぎると、「水くさい酒」になりますが、もっと薄めると「酒臭い水」になってしまいます。

すり鉢(すりばち);大きな丼状の鉢で、内側にヤスリ状の溝が切ってあって、すりこ木で食材をすりつぶす。
 すり鉢の”する”が縁起が悪いと、”あたる”と言い換えてあたり鉢と言うことがあります。すりこ木も、当たり棒と言い換えます。スルメを、アタリメと言うのと同じです。落語では、スリッパはアタリッパとは言いません。
 右絵、北斎漫画より。

イカの木の芽合い(いかのこのめあい);「木の芽」とは、春先に暖かくなってくると木の枝先に新芽が芽吹き始めます。一般的に春先に芽吹く樹木の芽のことを「木の芽(きのめ)」といいますが、料理の世界では「山椒(さんしょう)」の芽を指して「木の芽」といいます。 山椒は、ミカン科の落葉低木で別に「ハジカミ」とも呼ばれていますが、日本原産の樹木であり広く北海道から鹿児島まで分布しています。ただ、山椒には雄株と雌株があり、実が採れるのは雌株だけです。

 

 イカの木の芽合い二種。

麦畑(むぎばたけ);麦を育てている畑。コムギとオオムギとをまとめて麦とよび、明治以降はその後伝来したライムギやエンバクなどをも麦に含めるようになった。この「麦」という概念は欧米にはなく、麦に相当する英語もない。麦類は中央・西アジアの乾燥地帯が原産で、秋に芽生え、越冬して初夏に開花し結実する冬作物である。このため麦類は日本では稲作のあとの水田や夏作物のあとの畑に、裏作物として栽培され、土地利用率を高め、食糧生産を高めることに寄与してきた。コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。なおライムギとエンバクは、原産地付近で、麦畑の雑草からしだいに作物化されたといわれる。
  麦類は世界の穀物生産の半分近くを占め、人類の半数近くの主食とされる。コムギは作物中生産量が第1位、オオムギ、エンバク、ライムギは、穀物のうちでそれぞれ第4、6、7位を占めている。コムギ、ライムギは製粉してパン食とし、オオムギは圧偏(押し麦と称する)やひき割りにして米に混ぜ、エンバクはオートミールなどとする。またオオムギはビール、ウイスキー、ライムギもウイスキー、ウォツカなど酒の原料として重要である。オオムギ、エンバクなどは現在は主として家畜の飼料とされている。

 

 麦畑。こんな中を歩かれたらお百姓さんも怒りたくなります。

野宿(のじゅく);古来より旅人が宿がない時代や、宿が見つからない場合、金銭的余裕のない場合などに戸外で睡眠をとりつつ夜を明かすことが少なからずあった。日本における旅宿の起源はは古代末期あるいは中世初期ころとされ、全国的に宿泊施設が整備されるのは近世に至ってからです。したがって、旅人が夜露をしのぐすべもないままに夜を明かす時代は相当に長かったと考えられます。古代では王侯貴族でさえも野宿を余儀なくされたことが「草枕」が旅の枕詞とされていることからもうかがえます。江戸時代に至っても金銭的余裕がない俳人などはしばしば他家の軒下を借り仮眠した。現代においても、登山者や旅好きの若者、ライダー、遍路の一部などが好んで行う。遍路や僧侶の場合は、功徳が目的の場合もある。野外で寝ることで普段見ることのない夜空を見上げたり、風に吹かれ自然を体得したりすることで、心地よさや風流心を満足させられることから、ライフスタイルの表明として行われる場合もある。

オオカミ(狼);イヌ科イヌ属に属する哺乳動物。広義には近縁種も含めることがあるが、通常はタイリクオオカミ(ハイイロオオカミ、Canis lupus)を指す。多数の亜種が認められている。同属の近縁種としてアメリカアカオオカミ、コヨーテ、アビシニアジャッカル(エチオピアオオカミ)などがいる。日本で古来「狼」と呼ばれてきた動物は絶滅したとされるニホンオオカミであり、タイリクオオカミの一亜種と見なされる。
 オオカミは肉食で、シカ・イノシシ・野生のヤギなどの有蹄類、齧歯類などの小動物を狩る。餌が少ないと人間の生活圏で家畜や残飯を食べたりする。ニホンオオカミが明治43年絶滅する前は、肉食動物は狼だけでイメージとしても恐れられた。

 

 科学博物館に展示されている絶滅最後のニホンオオカミの剥製。 北斎漫画から狼。

山寺(やまでら);噺の中の山寺は、山の中に有る小さな古びた寺です。
 こちらは山形県山形市山寺4456-1にある宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第三世慈覚大師円仁によって建立されました。 当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。元禄2年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』の名句を残しました。

庵主(あんじゅ);僧で庵室(木で造り屋根を草で葺(ふ)いた、小さな仮の家)を構えている者。特に、尼寺の主である尼僧。

畦道(あぜみち);田と田の間の細い道のこと。稲作農業において、水田と水田の境に水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたものである。畦は、水田の区画を成すと同時に、泥土のきめ細かさによって水漏れを防ぐ方法でもある。隣の水田との土地の境界でもあり、水田を回る際の道としての役割も持っている。


                                                            2019年6月記

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