落語「豆屋」の舞台を行く 十代目桂文治の噺、「豆屋」(まめや)より
■原話は、1774年(安永3年)に出版された笑話本『茶のこもち』の一編「不精」。 演者の持ち時間が少ないときや、早く高座を下りる必要のあるときなどに演じる、いわゆる「逃げ噺」の一種とされる。
逃げ噺;寄席で時間が押している時など、短い時間で、ちょこちょこっとやって、そこそこ客受けして時間調整が出来る演目の事を、「逃げ噺」と言います。だから、小噺にちょっと毛の生えた程度の軽い演目の事を「逃げ噺」と云っていて、実はいろんな演目があります。その中でも、「豆屋」なんかは、「逃げ噺」の真打ちと云えるのではないでしょうか・・・。まあ、あんまり大師匠がやるような演目ではありませんが、近年では、先代の芸協会長の十代目 桂文治さんが、前名伸治時代から持ちネタにしていました。たとえば、「首や」 「豆や」 「味噌豆」 「からぬけ」などがあります。
■十代目桂 文治(かつら ぶんじ);(1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家で南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長。落語江戸(東京)桂派宗家。本名は関口達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸。出囃子は『武蔵名物』。
父親の初代柳家蝠丸(ふくまる)の名跡は自分の弟子に継がせた。大正時代に月給制度になったとき一番の高給取りであったが、その会社は潰れ、昭和18年に脳溢血で亡くなった。それからズーッと空き名跡になっていた。その名を継ごうと思っていたが、桂小文治門下だったので、桂を継がせたかったのでしょう、叶わなかった。先代の文治が翁家さん馬(おきなやさんば)からなったので空いていて、その名前になりたかった。小文治も了承してくれて名跡は持っていたが、披露の前に小文治が亡くなってしまったので叶わなかった。正蔵(彦六)が文七が真打になるので名跡を譲ってあげて欲しいと頼みに来たので、文七に翁家さん馬を上げてしまい自分はなれなかった。しかし、大名跡の文治が空いていたので、それを・・・、と言うことで、この名に落ち着いた。(文治談)
昭和54年(1979)3月、前年亡くなった九代目桂文治の盟友である八代目林家正蔵(彦六)の推薦で十代目桂文治を襲名。桂派宗家となる。平成8年(1996)、芸術選奨文部大臣賞受賞。平成11年(1999)9月、四代目桂米丸の後任で落語芸術協会会長就任。正調の江戸弁を大切にしていた噺家であった。
落語「だくだく」で十代目文治のことを語っています。
■心張り棒(しんばりぼう);戸口などがあかないように内側に押えておくつっかい棒。
■薪だっぽ(まきだっぽ);薪撮棒(まきざっぽう)。薪は燃料にする木。雑木を適宜の大きさに切り割って乾燥させたもの。たきぎ。わりき。炊事用の燃料は薪が主流で、長屋でもかまどに近くには薪が積み上げられていた。その一つを抜き出して棒きれのような使い方をした。
■ソラ豆;(蚕豆、空豆)は、マメ科の一年草または越年草。別名、おたふく豆、ノラマメ(野良豆)、ナツマメ(夏豆)、テンマメ(天豆)、シガツマメ(四月豆)。高さ50cmほど。秋に播種する。花期は3−4月で直径3cmほどで薄い紫の花弁に黒色の斑紋のある白い花を咲かせる。収穫は5月頃から。長さ10−30cmほどのサヤには3−4個の豆が含まれている。
和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。
■アイスクリームみたいな形;ソフトクリームのことでしょう。コーンの上にとぐろを巻いて立ち上がっています。
■ひこイワシ;しこいわし。ヒシコイワシはアンチョビと呼ばれ、カタクチイワシと呼ばれることが多い。
カタクチイワシ(ヒシコイワシ)は、カタクチイワシ科に属します。
■子供が寝ているんだから静かにして頂戴;落語の中だけのジョークだと思っていました。暮れの夜回りで歩いていたとき、普段は窓が開いて、「ご苦労様」と言う声が掛かるのですが、その時は窓が開いて、上記のような言葉が私たちに浴びせられました。その上、消防署にまで電話を入れて苦情を言ったのです。豆屋さん以上に驚きました。
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