落語「正月丁稚」の舞台を行く
   
 

 二代目桂小南の噺、「正月丁稚」(しょうがつでっち)より


 

 一年を回る月日は速いもので、もう一年が回ってきました。大店の正月風景を・・・。

 除夜の鐘を心待ちに待ちます。除夜の鐘を聞きますと正月です。「定吉、皆を起こしなさい。お雑煮でお祝いしますから・・・」、「お雑煮でお祝いしますから、早く起きてください。早く起きないと、また、雷が落ちますから・・・」、「正月早々、雷なんて言ってはいけません。ものの頭には”お”の字を付けなさい」、「旦さんのことは、お旦那さんですか」、「そうだ」、「番頭さんは、お番頭さんですか」、「そうだ」、「多助ドンは、お助けドンで、おかみさんはオオカミさんですね」。
 「今裏で大きな音がしたが見ておいで」、「今、お定吉ドンがお裏においでになりましたら、お泥棒さんが横になってお休みしていました」、「正月早々泥棒が入っていたのか?」、「違います。泥の付いた棒が寝ていたんです」、「そんな物に”お”の字を付けるやつがいますか。木の物におの字を付けなくてもいい」。
 「井戸に行って水を汲んでおいで、『新玉の 年とちかえる あしたより 若柳(わかやぎ)水を 汲み初めにけり』と三遍唱えて、『お年玉です』と言って、ダイダイを入れるんじゃ」。「行って来ました」、「汲んできたか。歌はチャンと言えたか」、「チョット間違えたかも知れません。旦那は何と言いました」、「『新玉の・・・』じゃ」、「やっぱり間違えた『目の玉のでんぐり返る明日より末期の水を汲みにけり』、これはお人魂です、ダイダイをドボン」、「くわばらクワバラ。ちゃんと汲んできたな」、「へぇ~、”け”に汲んできました」、「何じゃ、けと言うのは?」、「ホントは、おけ、なんですが、木の物におは要らないというので、けです」。
 「お雑煮の用意が出来たので、中之間に皆を呼びなさい」。番頭さん以下全員が旦那さんに新年のご挨拶。「定吉、めでたいな」、「眠たい眠たい」、「お清やめでたいな」、「煙たい煙たい」、「権助やめでたいな」、「俺は死にたい死にたい」。「定吉や、皆にお福茶を配ばんなさい」、「分かった。餅が食べられないように、お茶をガブガブ飲ませるんだ」、「定吉が縁起でも無いことを言うので、一句浮かびました『お福茶や茶碗の中に梅香り』」、「なるほど、良く出来たな。佐助ドンはなんと」、「『お福茶や茶碗の中に梅開き』」、「いいな。めでたいな」。「定吉どうした?」、「出来ました」、「出来るはずが無い。では、なんと・・・」、「『お福茶や 茶碗の中に 梅干しと昆布が土左衛門』」、「なんだ、あいつは。要らんことばっかり言う」。「正月は縁起物ばっかりなんですね」、「そうだ」、「この箸は先と元が細くて、真ん中が太くなっていますね。どうしてですか」、「何処のお家でも最初からお金が有るわけじゃない、一生懸命働いてお金を貯めて、逃がさないように先を細くしてある。お金が有る太いところをしっかり握るんだ」。「梅干しはシワが寄るまで長生きすように」、「定吉にしては上出来だ」、「切り炭は皆が苦労するように。串柿は枕を並べて討ち死にするように」、「何て事を言うんだ。黙って食べなされ」。
 定吉が泣き出した。「歯が抜けました」、「またヤナ事をいう」、「良く見たら、お金(かね)です」、「餅つきの時、金を入れておいたのだ。誰に当たるかと思っていたら定吉だったか。金が餅から出たのだ、金持ちになる」、「そんな事無いです。金が持ちかねます」。

 二階に上がり着物を着替えた。旦那さんのお供で近所回りの挨拶です。公衆便所に名刺を30枚も置いたり、渋谷藤兵衛がまいりましたというのを、略して言うので『しぶと(死人)』がまいりましたと、叫んで歩き、水溜まりがあれば、「飛べ(とーべー)」と言う始末。恥ずかしくなって早々に引き上げてきた。

 「奥にお酒の用意が出来ているので、お年賀のお客さんには上がって貰いなさい」、「いつになったら遊びに行けるのかな~」、乞食が来てもあげてしまうので、番頭さんからもお小言頂戴。
 「旦那様、雨が降ってきましたので、裏を閉めてまいりました『裏閉め(浦島)太郎八千歳』」、「出来た出来た」、「旦那さん、あちこちを閉めてまいりましたので『東方朔は九千歳』」、「これも出来た出来た。権助やどうした」、「身体がブルブル震えるので『震えの権助(三浦の大助)百六つ』」、「良く出来た。お清や、帯を振り回してどうした?」、「掛かるめでたきところに如何なる悪魔が訪れようともこの清が引っ捕らえ繻子の帯へさら~りさら~り」、「『西ノ海へさら~り』か出来た出来た。定吉やそんな所に布団を持ってきてどうしたんじゃ?」、「へぇ~、夜具払いましょう夜具落としぃ~」。

 



ことば

二代目 桂 小南(かつら こなん);(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。特に「いかけ屋」、「ふぐ鍋」、「菜刀息子」で知られる。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。享年77(満76歳没)。
 大正9年(1920)、京都府北桑田郡山国村井戸(現在の京都市右京区)に、左官業・谷田政吉の三男として生まれる。小学校を修了したのちの昭和8年(1933)、京都市今出川寺町の印刷店に奉公し、1年後の昭和9年(1934)に京都市内の呉服問屋に移った。呉服問屋では、すぐに東京日本橋に移された。 問屋に5年勤めた後、昭和14年(1939)、三代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。太平洋戦争中は召集を受け、昭和20年(1945)に復員した。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで二代目桂小文治の身内となる。昭和33年(1958)9月、八代目桂文楽の好意で二代目桂小南を襲名して真打となった。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。 丹波なまりが抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の三代目金馬より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した。以降、大阪の「富貴」「戎橋松竹」などといった寄席に出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤めるかたわら、上方の若手(三代目桂米朝、三代目桂春團治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。このとき、小南に稽古をつけた橘ノ圓都が自信を取り戻し高座に復帰した、という上方落語復興の一側面を物語るエピソードがある。 独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。昭和44年(1969)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、昭和43年(1968)と昭和56年(1981)には文化庁芸術祭の奨励賞、平成元年(1989)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1990年、紫綬褒章受章。

丁稚(でっち);職人または商人の家に年季奉公をする年少男子。雑役に従事した。同じ呼び名でも上方では「丁稚」、関東では「小僧」と言います。で、この噺は上方落語だと分かります。

奉公人の休日;江戸時代は奉公に出た年少者は、年に2回の休みしか貰うことが出来ませんでした。当然、正月は休みの対象にはなりません。
 年2回の休みを、藪入り(やぶいり、家父入)と言い、奉公人が正月および盆の16日前後に、主家から休暇をもらって親元などに帰ること。また、その日。盆の休暇は「後の藪入り」ともいった。宿入(やどいり)。広辞苑より
  先代三遊亭金馬が落語「藪入り」を良くやっていましたが、親子の情愛が色濃く出ていて、他の落語家さんがやれなかったぐらい素晴らしかったものです。噺の中で、前の晩から寝られずに子供の帰りを待つ、藪入り経験のある男親の気持ちが滲み出ています。
  主人公の息子も、里心がつくと言って3年間は休みを貰えなかった。その三年目の初めての休み。出掛ける時は、 「藪入りに旅立ちほどのいとまごい」 で、家に喜び勇んで帰ってきたのです。

除夜の鐘(じょやのかね);大晦日の夜半、年越しに深夜0時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞く鐘。
右写真:除夜の鐘

■『新玉の 年とちかえる あしたより 若柳(わかやぎ)水を 汲み初めにけり』は、縁起担ぎの言葉で、新年初めて井戸の水(若水)を汲むのに、唱える歌です。落語の「七福神」(かつぎや)では、こう教えられた下働きの清蔵は定吉と同じ、『目の玉のでんぐり返る明日より末期の水を汲みにけり』と言い間違えています。

お雑煮(おぞうに);餅を主に仕立てた汁もの。新年の祝賀などに食する。餅の形、取り合せる具、汁の仕立て方など地方により様々な特色がある。

  

お福茶(おふくちゃ);お茶の中に昆布と小梅が入った茶。昔、都に疫病が流行した時、ある僧がお茶によって人々の苦しみを救いました。その徳にあやかる意味から、時の天皇が年の始めに”お茶を服する”ようになったとか。以来、年賀の行事として一般に広まったという。
右:お福茶

■『裏閉め(浦島)太郎八千歳』;浦島太郎が八千歳まで生きたというシャレ。
 浦島太郎:(童話に出て来る浦島太郎)昔丹後の国に、浦嶋といふもの侍(ハベリ)しに、その子に浦嶋太郎と申して、年の齢(ヨワイ)二十四五の男(オノコ)有りけり。明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが、有(アル)日のこと、釣(ツリ)をせんとて出でにけり。浦々島々、入江、到らぬ所もなく、釣をし、貝を拾ひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑしまが磯といふ所にて、亀をひとつ釣り上げける。浦嶋太郎此亀にいふやう、「汝(ナンジ)生(シヨウ)有るものゝ中にも鶴は千年、亀は万年とて、命(イノチ)久しきものなり。忽ちこゝにて命をたゝん事、いたはしければ、助くるなり。常には此恩を思ひ出(イダ)すべし」とて、此亀をもとの海にかへしける。かくて浦嶋太郎、其日は暮れて帰りぬ。又次(ツグ)の日浦の方(カタ)へ出でて、釣をせんと思ひ見ければ、はるかの海上(カイシヨウ)に、小船一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば、美しき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ着きにけり。広辞苑
  雄略紀・丹後風土記・万葉集・浦島子伝などに見える伝説的人物で、丹後水の江の浦島の子または与謝郡筒川の島の子という漁夫。亀に伴われて竜宮で3年の月日を栄華の中に暮し、別れに臨んで乙姫(亀姫)から玉手箱をもらい、帰郷の後、戒を破って開くと、立ち上る白煙とともに老翁になったという。

■『東方朔は九千歳』;東方朔は九千歳まで生きたというシャレ。
 東方朔(とうぼう さく):前漢(202~8)の学者。字は曼倩。山東平原の人。武帝に仕え、金馬門侍中となる。ひろく諸子百家の語に通じ、奇行が多かった。伝説では方士として知られ、西王母の不死身の桃を盗食して死ぬことを得ず、長寿をほしいままにしたと伝える。九千歳と言うと、まだ彼は生きているんですね。

■『震えの権助(三浦の大助)百六つ』;三浦の大助百六ッつのシャレ。
 三浦義明(みうら よしあき):平安末期の武将。三浦大介と称。源頼朝の石橋山の挙兵に一族を参加させたが、平氏の追討軍畠山重忠と衣笠城に戦って敗死。(1092~1180)
 89歳で亡くなったのですが、頼朝が言ったらしいんです、義明の17回忌で、『あなたはまだ自分の中で生きている』と。それで17回忌まで生きた事にすると、89+17=106となった。これが『三浦の大助百六つ』と呼ばれるようになった由来です。
右の絵:「一魁随筆」 月岡芳年画 東方朔、浦島太郎、三浦大介義明の3人が描かれています。 

■『掛かるめでたきところに如何なる悪魔が訪れようともこの清が引っ捕らえ繻子(しゅす)の帯へさら~りさら~り』;お清さんの台詞ですが、落語「厄払い」のご祝儀を貰うための文句です。
 『かかる目出度き折からに、如何なる悪魔が来よぉとも、この厄払いが引っ掴み、西の海へさらり、厄(やく)払いまひょ』。
 厄払いの与太郎さんの口上全文は、次のようになりますが、後半部分のもじりです。
 『あ~ら、目出度いな目出度いな、今晩今宵のご祝儀に、目出度き事に払おうなら、まず一夜明ければ元朝の門(かど)に松竹注連(しめ)飾り、床(とこ)に橙(だいだい)鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年亀は萬年、東方朔(とうぼうさく)は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六つ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折からは、悪魔外道が飛んで出で、妨げなんとするところ、この厄払いが掻い摘まみ、西の海と思えども蓬莱山の事なれば須弥山(しゅみせん)の方へ、さら~り、さら~り
』。

■『夜具払いましょう夜具落としぃ~』;定吉の台詞。今まで悪態ばかりついていたのに、最後に良い事を言いました。『厄払いましょう、厄落としぃ~』のもじり。



                                                            2016年9月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system