落語「茶釜のケンカ」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭金馬の噺、「茶釜のケンカ」(ちゃがまのけんか)より


 

 お酒は限度を超えて飲んでしまうものです。
 「おう、姉さん、お宅の亭主連れてきたよ」、「八つぁん、すいませんね~、いつも面倒掛けて・・・。お前さんッ」、「ダメだよ。今日は何にも言わないで、寝かせてやってくれ。小言は明日にして・・・」。
夫婦ですから、何も言わずに寝かせてしまいます。ドロドロになった着物を枕元に吊します。
 翌朝起きてその着物を見た瞬間、シマッタと思いますが、手遅れです。顔を洗っても、頭はピンピン、胸はムカムカ、ピンピンムカムカ。悪い事に向かいが魚屋で、マグロの中トロが並んでいます。
 「あれを肴に5本と言わず、3本でも熱燗にしてキュッとやれば溜飲が下がっちゃうんだがな、飲みたいな。オイ、お寅、あの肴で熱燗で3本、俺の前に出してくれ。鳴り物なしで平らげてみようじゃ無いかぃ。頼むよ」、「イヤだね。枕元の着物見ただろ。八つぁんが連れてきてくれたんだよ。飲むなとは言わないよ。でも、仕事だけはやっておくれ。お店から催促があるだろう。仕事をしたら毎晩お酒は付けますから・・・、無理言わないで朝を食べて頂戴」。
 二日酔いの朝は飯の匂いや、味噌汁の匂いは辛いものです。女房には落ち度がありません。何か無いかと見回していますが落ち度は何も無い。見上げると神棚の御神酒徳利が片方無い。「コラッ、御神酒徳利が片方だなッ」、「お前さんは、ネズミが壊したのは知っているじゃないか」、「俺は職人だ。神様の徳利が片方じゃ仕事が出来ね~。酒飲むぞ!」、「バカバカしったらありゃ~しない。このデコスケが・・・」、「主に向かって何だッ」、「主だ?馬の草鞋みたいな顔をしやがってッ」、「何オー」、「殴ったね」、「それがどうした」、「殺せ~ッ」。

 「オイオイ、お竹、お隣が始まったよ。仲裁に行ってこい」、「行かないよ。お隣の熊さんのケンカをいちいち止めに行っていたらこの長屋に住めないよ。男のアンタが行けば・・・」、「男が行けば大事(おおごと)になる」、「やだよ。こないだも行って止めたら、この顔のキズだ、未だ治らないよ」、「お前、俺の言うことが聞けないのか」、「おや、絡んできたね。行けないと言ったらどうするんだ」、「このやろう」、「殴ったね」。
 風では無いが、これが・・・ズ~ッと長屋中を吹き抜けます。大家も始末に負えないので熊公を呼びつけます。

 「オー、店(たな)空けてくれッ!」、「家賃は払ってあるぜ」、「家賃は貰っているが、証文に書いてあるだろう。長屋中が困っているんだ。店空けてくれ。出来ないなら女房と別れろ、そしたら置いてやる」、「そうか、別れるか~。女房がいなければ酒も飲める。仕事に行かなくても怒られない、それに夫婦喧嘩も出来ない。良い考えだ。早速帰って言うよ」。
 「おじいさん、あんな事言って良いのかい」、「婆さん黙っていな。あのお寅さんは出来た女だ。それに仲人を引っ張り出すだろう。その仲人は漢学の先生、榊原さんだ。あの先生はうるさいんだ。先生に掛かれば別れることはない」。

 「オイ、お寅、この家から出て行け」、「ケンカの続きかぃ。済んだと思っていたのに」、「大家が店空けろと言うんだ。夫婦別れをしたら住んで良いと言うんだ」、「出て行くけれど、仲人が有って結婚したんだ。仲人の先生を連れてきなさいよ。恐いんだろう」、「ヒゲが有って恐かったら五月人形は見られないや。行ってくるから待っていろッ」。

 「先生いるか?」、「オッ~、熊五郎か。こちらに入りなさい。顔色が変わっているな」、「お寅を引き取って貰おう」、「引き取るが、どー言う、悪いとこがあった」、「御神酒徳利を片方壊したんだ」、「徳利ぐらいで、先方に行けるかッ。・・・お前、昨夜は飲んだな。友達に連れてきて貰って寝たが、今朝は二日酔いでピンピンムカムカ、前にある魚屋の中トロで3合ばかりやりたいと思ったな。でも、お寅は飲ませない。そこで喧嘩になったな」、「立ち聞きしたな」、「その位のことは顔に書いてある。熊五郎、化けることを知らないな、化けなさい」、「化けろと言ったって、鍋島の猫じゃ無いゃ」、「酒を1升飲んだら、5合飲んだようにし、5合飲んだら3合飲んだような顔をし、3合飲んだら顔をぬぐっていれば、お寅は晩酌を出してくれる。化けなさい。お前は5合飲んだら1升飲んだようになる。狐、狸だって化ける、金毛九尾白面の狐と言うのが有る、これは唐土(もろこし)で、妲己(だっき)となって王をたぶらかせ、天竺に渡って太子をたぶらかした。本朝に到っては尊き方々を玉藻前(たまものまえ)になってたぶらかした。また、後醍醐天皇七歳の時萩を見物なさった。その時に茨木童子が現れて明日は雨なりと申し上げた。その時に帝は考えられて、持っている笏(しゃく)を投げつけると、大なる野干(やかん)となって逃げていったという」、「湯がかかって火傷をしただろう」、「そのヤカンではなく、狐のことをヤカンと言った」、「ムジナは鉄瓶か?」、「そんな事は言わない。分かったか、狐でも化ける、お前も化けなくてはいけない。夫婦は仲良くしなければならない。熊五郎、帰りなさい」。
 「フラフラと出て来てしまったが、一生夫婦別れが出来なくなった、仲人を変えなくては・・・」。

 「この長屋でケンカしてやがら・・・。久治の家だな。俺に断り無く・・・。いつも仲裁して貰うから、今回は仲裁するぞ」。
 「久治止めろ。お花さん止めろ。身重で掛かって行っちゃいけね~。久治も身重なお花さんを殴っちゃイケネ~。・・・、お前、昨晩酒飲んできたな」、「お前と違う。俺は下戸だ」、「下戸?水をたらふく飲んだだろう。道に倒れているところ友達に助けられ、お花さんに渡しただろう。翌朝、気持ちが悪くて、向かい水を飲んだら旨いだろうと思って、向かいを見ると魚屋だ」、「家の前は八百屋だぃ」、「お前はそのカボチャで水3合飲んだら気持ちが良いだろうと思ったら『水ばかり飲んでブクブクしたら腎臓に悪い』とお花さんに言われただろう。働きなさい、そしたら寝水は欠かさないと。でも女房の何か落ち度がないかと探すと鉄瓶の蓋はチャンとしているし、お膳の脚も取れていない、見ると御神酒徳利は二つともそろっている・・・。なんだ、この家は・・・。だから化けなくちゃいけねぇ~。1升水を飲んだときは5合、5合飲んだときは3合、3合飲んだときは、口をぬぐっていれば良いんで、カミさんは末期の水を手向けるだろう。分かったか。人間は化けるが、狐はもっと化けるぞ。窮乏キウリ、キュウモウの狐はトウモロコシを食って抱っこになった。天竺木綿の腹巻きをしてカヨウ婦人となって団子とタニシを食ったとさ。我が町に到っては玉を転がすのが流行って、番町の金兵衛がいっぺんに塩を買ってパンを食べたとさ。人形が九六銭で天皇様が七つ並んでおはぎを食べているところに、酒呑童子が大江山からやって来た」、「何の話だ?」、「俺にも分からない。黙って聞け。酒呑童子が言うには明日は雨だという」、「参ったな~。明日は練馬まで行くんだ」、「ず~っと昔の話しだ。明日は雨なり・・・雁が南に飛んだと国定忠治が言った。そうするとそこに有った柄杓を振り回すと大きなヤカンになった。湯が入ったヤカンじゃ無いぞ、ヤカンとは狐のことだぞ。ヤカンが狐だとムジナは鉄瓶だと思うだろう。お前のケンカはヤカンのケンカか、鉄瓶のケンカか、茶釜のケンカか、何のケンカだ」、「よーっくしゃべるな、ベラベラと・・・。聞いていたら、なんでケンカしているのか忘れちゃった。そうだ、清水さんから茶釜を貰ったんだ。これだけは大切にしろと言ったのに錆びさせてしまった。身重だからと言って・・・、だからお花に小言を言っていたんだ」、
「茶釜でケンカしていたのか。道理でお前のカミさんは狸が化けた」。

 



ことば

この演目は、いわゆる「鸚鵡(オーム)返しの事で、教えてもらった事をことごとく間違えて人に伝える」パターンで、「青菜」や「短命」や「天災」や「二十四孝」などとそのコンセプトが似ています。根多がかぶると申しまして、同じような内容の演目を持ち根多にしても、その使い分けに迷うばかりで無駄なので、普通は持ち根多にしません。特にこの演目は「天災」に似ているので、それを持ち根多にしている噺家は敢えてこの演目を仕入れようとは思わないでしょう。だから、円歌さんだけしか戦後は音源を残していないって事なんでしょうネ。
 
 この演目で熊五郎がいろんな事を教わる漢学者の先生の名前は、榊原先生。天災では、紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)先生です。「殺生石伝説で知られる金毛九尾の狐」が出て来るので、その説明が難しい。キツネの事を「野干(やかん)」と言い、その事から「茶釜」がタヌキとなる・・・、事なんですがオチは・・・。

ぶんぶく茶釜
 【昔話より】 和尚さんが古い茶釜を買ってきて、お湯を沸かそうと火にかけたところ、茶釜が「熱い!」と悲鳴をあげた。気味悪がった和尚さんは、古道具屋にただで譲った。 古道具屋は家に持って帰って、その茶釜がタヌキが化けたものだと知る。タヌキはその姿のまま元に戻れなくなってしまったというので、古道具屋はタヌキの言われたままに見せ物小屋を作ってやり、分福茶釜と銘打って見せ物をしてたくさんのお金を稼いだ。 やがてタヌキは病気を患い、茶釜の姿のまま死んでしまった。古道具屋は茶釜をお寺に運んで供養してもらった。その茶釜は茂林寺に今も伝えられているという。
右写真: 茂林寺の茶釜(日本の民話13、研秀出版より)

白面金毛九尾の狐(はくめんこんもうきゅうびのきつね )
 噺の中では、金毛九尾白面の狐と言われています。顔は白く、金色の毛並をしており、九つの尻尾を持つ。 また「玉面」とも呼ばれることから、「白」の意味は元々「美しい」という意味で与えられた表現とも考えられている。強大な妖力の持ち主であり、その強さは全ての妖狐の中でも最強と云われている。日本では大嶽丸、酒呑童子と並ぶ日本三大妖怪と名高い。江戸時代以降、歌舞伎や人形浄瑠璃の題材としてよく採り上げられた。

 

 葛飾北斎『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』 玉藻前の前身である天竺の華陽夫人が九尾の狐の正体を現し逃走する図。部分。

 『延喜式』の治部省式祥瑞条には「九尾狐」の記載があり「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とある。 日本では玉藻前(たまものまえ)が九尾の狐の妖怪として有名である。平安時代に鳥羽上皇に仕えた玉藻前という美女の正体が「狐」で、退治されたという物語は、14世紀に成立した『神明鏡』にすでに見られる。しかし、室町時代の『玉藻物語』などでは尾が2本ある7尺(約2100cm)の狐であると描写されており、九尾の狐とは語られていなかった。玉藻前が「九尾の狐」であるとされるようになったのは妲己(だっき)が九尾狐であるという物語が玉藻前の物語に取り入れられるようになった江戸時代以降のことであると考えられる。玉藻前が九尾の狐であるとの設定を定着させたのは、読本作家の高井蘭山が著した読本『絵本三国妖婦伝』(1803年~1805年)や岡田玉山『絵本玉藻譚』(1805年)である。妲己(九尾狐)と玉藻前とについては、それ以前に林羅山が『本朝神社考』の「玉藻前」の項目で『武王伐紂平話』の話を引いている。
 一方、おなじく読本作家であった曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』において善玉である九尾の狐「政木狐」を登場させている。馬琴は玉藻前に代表される九尾の狐を悪玉であるとするイメージは『封神演義』などの物語に影響された近年のものであるとして退け、史書などを活用し、九尾の狐は元来瑞獣であるという考証を展開している。馬琴のように、九尾の狐は本来は神獣で、物語の上で悪い狐であると語られるのは俗説・荒唐無稽な創作である、という論考はそれ以前からもたびたび学者や文筆家などが指摘をしている。
 ウイキペディアより

玉藻の前(たまも‐の‐まえ)
鳥羽院の時、仙洞に現れた金毛九尾の狐の化身とする美女。院の寵を得たが、御不例の際、陰陽師の安倍氏に看破られ、下野の那須野の殺生石と化したという。謡曲「殺生石」をはじめ浄瑠璃・歌舞伎・小説などの題材となる。
 玉藻前曦袂(たまものまえ あさひのたもと)
たまものまえ‐あさひのたもと【玉藻前曦袂】 浄瑠璃の一。浪岡橘平ほか合作の時代物。1751年(寛延4)初演。鳥羽帝の兄薄雲皇子の謀叛と、玉藻前の伝説とを結んで脚色。近松梅枝軒らの改作による三段目切「道春館」が「玉三(タマサン)」と通称されて名高い。後に歌舞伎化。
広辞苑

馬の草鞋(うまのわらじ);馬の爪は傷つきやすく牛と異なり爪の手入れが年に数回必要であった。 蹄鉄が日本の軍隊に導入されたのは明治になってからで、農村まで普及したのは大正期以降でありそれまでは丸い馬用ワラジが使用された。特に、供出米を馬の背につけて運ぶときなど土道は土だけの道であったので問題はなかったが、砂利道に変ると爪を痛めるおそれがあった。 そのため必ずワラジを履かしたという。右写真。
 当時庶民と暮らしていた馬は、小型ながら強靭で持久力があり粗食に耐えました。運搬に使用する馬は、36貫(135kg)前後の荷物を限度に、またわらじの寿命は1~2時間であり、磨り減るか、または紐が切れたところで休憩を取り、新しいわらじに履き替えて目的地に向かったと考えられます。すぐ磨り減ってしまう不便さを感じながらも、わらじは固い地面から蹄を守り、使用済みのわらじと馬糞は水田や畑の肥料にもなりました。

御神酒徳利(おみきどっくり);神酒を入れて神前に供える1対の徳利。落語「御神酒徳利」を参照

漢学の先生(かんがくのせんせい);中国で、宋・明の性理の学に対して漢・唐の訓詁(クンコ)の学。清の恵棟・戴震らが称え、考証学の基礎をなした。日本で、一般に中国の儒学または中国の学問の総称。奈良・平安時代には特に盛んで、わが国の礼楽・諸制度にも少なからぬ影響を与えた。江戸時代に漢学派として再興。その漢学を教授する人。

鍋島の猫(なべしまのねこ);鍋島騒動、佐賀の鍋島家の御家騒動に仮託した怪猫談。講談・戯曲類に脚色され、実録物では「佐賀怪猫伝」、講談では「佐賀の夜桜」などが代表的。
 ある時、二代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣・龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたため惨殺されてしまいます。 又七郎の母は恨みを口にしながら自害。この時に母の死体から流れた血をなめた飼い猫が化け猫となり、側室・お豊の方を食い殺して乗りうつり光茂に近づきます。それ以降、家臣が発狂したり、奥女中が惨殺されたりと、さまざまな怪異が発生。光茂も苦しめられますが、最後は忠臣が化け猫を退治して佐賀藩を救うという伝説です。
 もちろん化け猫騒動は事実ではなく、又七郎もお豊の方も実在の人物ではありません。この騒動の下地となっているのは、佐賀藩成立時に発生した鍋島家と旧主家の龍造寺家との間の権力闘争です。

唐土(もろこし);日本で中国を言う古い呼称。

妲己(だっき);中国の古代王朝の殷(いん)の紂王(チユウオウ)の寵妃。淫楽・残忍を極めたといわれる。周の武王に殺された。転じて、毒婦。
 日本では、『妲己のお百』が知られる。 お百は、京都九条通の賤家の生まれ。美貌の持ち主で、14歳で祇園中村屋の遊女となり、鴻池善右衛門に身請けされた。江戸役者津打友蔵と姦通し、江戸に下り、友蔵の死後新吉原の尾張屋清十郎の女房となり、佐竹家の臣である那河忠左衛門の妾となり、秋田騒動に関係し名を「りつ」と改めた。那河が秋田騒動の中川采女で、那河は宝暦7年6月処刑されたが、お百は奉公人であるとしておとがめなく、間もなく江戸に出て、高間騒動の高間磯右衛門の妾となったという。その間男性を殺害すること五度にわたり、宝暦年間の退廃期を代表するとされる。

 

左、「殷の妲己」。  右、葛飾北斎画『北斎漫画』より「殷の妲己」。九尾の狐が化けた姿として描かれている。

天竺(てんじく);日本および中国で、インドの古称。天竺木綿の別称。

本朝(ほんちょう);わが国。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう);鎌倉末期・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(タカハル)。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。間もなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。(在位1318~1339)(1288~1339)

茨木童子(いばらきどうし);平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。 出生地には、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県長岡市の軽井沢集落)という説がある。生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指した。 酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされたものの、茨木童子は逃げ延びたとされる。 その後、頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦った故事が、後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれているが、そのため本来は別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視されている。

(しゃく);(字音コツが「骨」に通うのを忌み、長さがほぼ1尺であるところからシャクと呼んだという) 束帯着用の際右手に持って威儀を整えた板片。唐制の手板(シユハン)にならう。もとは裏に紙片を貼り、備忘のため儀式次第などを書き記した。今日では衣冠・狩衣・浄衣などにも用いる。令制では五位以上は牙笏と規定されたが、延喜式では白木が許容され、以後礼服以外はすべて一位(イチイ)・柊(ヒイラギ)・桜・榊(サカキ)・杉などの木製となった。長さ1尺3~5寸、幅上2寸2~3分、下1寸5分、厚さ2~3分。さく。

野干(ヤカン);射干ともかく。狐の異称。また、中国で狐に似て小さく、よく木に登り、夜啼く声が狼に似ているという獣。

下戸(げこ);酒が飲めない人。熊さんは呑めるので先生から酒の量で説教されたが、久治には酒を水と言い替えて説教したので、本人も分からない言葉になってしまった。

向かい水(むかいみず);向かい酒の言い替え。

末期の水(まつごのみず);人の死のうとする時、その口中にふくませる水。しにみず。あらあら、そんな水飲みたくないよ~。

天竺木綿(てんじくもめん);(もとインド地方から輸入したのでいう) 金巾(カナキン)よりやや厚手の白生地木綿織物。敷布・足袋地・裏地などとする。

酒呑童子(しゅてんどうじ);鬼のすがたをまねて財を掠(カス)め婦女子を掠奪した盗賊。丹波国大江山や近江国伊吹山に住んだといい、大江山のは源頼光が四天王と共に退治したという。絵巻・御伽草子・草双紙・浄瑠璃・歌舞伎などの題材となる。
 一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。 歴史家の高橋昌明は、正暦5年(994年)に大流行した疱瘡がこの伝説に関わっているのではないかと見ている。また、『史記』に記される蚩尤伝説や、唐代の小説『補江総白猿伝』、さらには明代の『陳巡権梅嶺失妻記』との類似も認められるという。

 

 大江山の酒呑童子と源頼光主従 (歌川芳艶 江戸時代) 

国定忠治(くにさだちゅうじ);江戸後期の侠客。上州国定村生れ。本名、長岡忠次郎。博奕渡世で罪を重ね、磔刑。国定忠治とも書く。(1810~1850)
 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。「赤城の山も今宵限りか」の名文句は有名です。



                                                            2018年1月記

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