落語「とんちき」の舞台を行く
   

 

 初代柳家小せんの噺、「とんちき」より


 

 今夜は雨が降る。こう言う晩は吉原(なか)も暇だろう。こう言う晩に行けば、もてるだろう、なんて了見でお出かけになる。ところが、こういう晩の方が忙しい事があるんだそうで・・・。

 「すっかり濡れちまった。こう言う晩に行ってやれば、花魁は喜びやがるだろうな」、「あら、ちょいと、よく来たのね。この雨でしょ、またお茶を挽くかと思っていたのさ。本当にうれしいよ。何か食べる?」、「何か、お前の好きなものを取りねぇ。どうだい、刺身なんぞ」、「お刺身、結構ね。で、変り台(他の注文)は?」、「何でも乗せな」、「お寿司が食べたいな」、「弥助(やすけ=寿司の符丁)はよしねぇ、夜中に寿司なんぞ良くない」、「大丈夫だよ、慣れてるから」、「じゃ、後は宇治でも濃くして、頼まぁ」、「お前さん、すまないが、私はちょいと行って来るからね」、「今夜は他に、客はねえてぇ事を聞いてたんだが」、「チョッチョッの間だから、少し待ってて頂戴よ」。

 花魁はそこを出て、わきの座敷へ。別の男が待っていた。「お待ちど~様、どうも遅くなってすいません」、「どうしたんだい、客かい?今夜、お前、他に客がねえてぇから、俺は登楼(あが)ったんだぜ。ずいぶん時間がかかるじゃねぇか。隠したってダメだよ、良い人が来たんだろう」、「そんな甚助(焼き餅)を言うもんじゃないよ」、「お前、さっき何と言った。今夜は雨がひどく降る。お茶を挽くかと思ったら、よく来てくれてうれしい、なんて言いやがって。さっき若い衆に呼ばれた時の、お前のうれしそうな顔ってなかったぜ。きっと間夫だろう。その間夫の所へ行ってやれよ」、「いやだよ、この人は。間夫はお前さんの他にあるもんじゃないやね」、「だったら、お客だろ」。
 「実を言やぁ、お客だよ。お前さんも知ってる人だよ」、「知ってる人って、誰だい?」、「先々月だったかねぇ、お前さんが朝、出し抜けに雨が降って、仕事を流した日があったろう。あの時に、ホラ、お前さんが顔を洗っているところへ、二階から楊枝をくわえて、降りて来た変な奴があったじゃないか。あの髭の濃い、メガネをかけてさ、二階から降りて来るところを見たけど、あのくらい足に毛の生えた奴はいねぇ。まるで熊が着物を着ている様な奴があったろう」、「うむうむ・・・」、「あの時、私が黙っていたけど、あれが私のお客だったんだよ。アレが今夜、来てるんだよ」、「ふ~ん、あのとんちきかッ」、「そうなんだよ。ささ、お酌をしよう」、「お前も一つ・・・」、「呑みたいけれど、ちょっと行って来るから。すぐ帰るから、おとなしく待ってて頂戴よ」と、花魁は部屋を出て、さっきの座敷へ。

 「ちょいと、遅くなって、すみませんねぇ~」、「今夜は客がねぇてぇから、俺は遊びに来たんだ。別に客があるなんて、面白かぁねぇや。きっと良い人が来てやがるんだろう」、「男のくせに、そんな甚助を言うもんじゃないよ」、「隠したって分かってんだ。きっと、良い人だろう」、「いやだよ、この人は。そりゃお客には違いないけれど、お前さんの知ってる人だよ」、「何だい、俺の知ってる人てぇのは?」、「さぁ、いつだっけ。そうそう、先々月だったねぇ。明け方から雨が降って来た事があって、お前さんがこれじゃ帰れないと、グチを言いなすって、顔を洗いに二階から降りて来た時、私が顔を洗わせていたお客があったろう。あの目尻の少し下がって、鼻が広がっていて、あごの長い、ほら、あん時、縞の羽織を着ていたと思ったが、あのお客が今夜来ているんだよ」、「ふ~ん、あのとんちきが・・・」。

 



ことば

「果報の遊客」という題で初代三遊亭円遊が速記を残している。これは「五人廻し」をくすぐり沢山に崩したような内容。両方の客に「ああ、あの馬鹿か」と言わせ、「両方で同じことを言っております」とダメを押している。これを(初代・盲の)柳家小せんが二人の客だけにしぼり、「とんちき」という題名でまとめた。
 初代柳家小せんは大正期の世相を折り込み、安見世の寒々とした雰囲気を活写したが、五代目古今亭志ん生が直伝で伝授され、現在につながっている。
 花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちを向けよ」、「いやだよ、あたしはこっちが寝勝手なんだよ」、「じゃあ、俺がそっちへ行こうか」、「いけないよ、箪笥があるんだよ」、「あったっていいじゃないか」、「中の物がなくなるよ」。
 初代小せんが振った小噺で、今でも廓噺の枕に使われ、古今亭志ん生もマクラで使っている。

■とんちき;「とん吉」で、「吉」をひっくり返して「ちき」として使っていたが、これが通常語になってしまった。頓痴気と漢字を振る。「人をののしっていう語。まぬけ。のろま。とんま。」のこと。深川の岡場所では、野暮な客を「とんちき」と呼んでいた。

禁演落語五十三種; 戦時中の昭和16年10月30日、時局柄にふさわしくないと見なされて、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目のこと。戦後の昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からははなし塚まつりも毎年開催されている。
 この中に含まれている噺「とんちき」です。
 詳しくは、落語「つるつる」をご覧ください。

初代・柳家 小せん(本名・鈴木 万次郎);明治16年(1883)4月3日(15日と言う説も)、浅草福井町一丁目の音曲師、四代目・七昇亭花山文(後の二代目・三遊亭万橘)の子として産まれる。明治30年、15歳で四代目・麗々亭柳橋の門に入って、柳松。明治33年に柳橋が亡くなったので、三代目・柳家小さんの門に入り、三代目・蝶花楼馬楽(落語通では「気違い馬楽」の通称で有名)の弟弟子となり、小芝から、初代・小せんを名乗ります。
 兄弟子、馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目され、有力な若手として期待を集めます。明治38年(1905)、馬楽が「落語研究会」のメンバーとなると、明治41年には、当時26歳の小せんも、研究会に抜擢され、めきめきと売り出します。小せんの得意は、馬楽に仕込まれた吉原通いの体験を元にした廓噺で、師匠小さんのネタはほとんど演じませんでした。
 明治43年(1910)4月に真打に昇進しますが、それまでの過度の廓通いが祟って脳脊髄梅毒症を患い腰が抜けたため、人力車で寄席に通い、もと吉原のお職だった女房おときさんに背負われて楽屋入りし、板付きで高座を務めますが、明治45年(1912)には白内障を患って失明したので、俗に「盲(めくら)の小せん」と呼ばれます。大正6年(1917)4月30日の夜、両国立花家で開いた独演会「小せん五女郎会」の出し物は、「磯の鮑」「五人廻し」「お茶汲み」「居残り佐平次」「羽織(羽織の女郎買い)」の五席で、その他、「お見立て」「白銅」、今回の「とんちき」などの廓噺を得意として演じました。
  しかし、大正6年の独演会後は、座布団の上に座る事も出来なくなり、師匠小さんの薦めにより、自宅の浅草三好町に若手を集め、落語家としては異例の「後輩から月謝をとって、落語を教える」と言う稽古場を開き、この稽古場は「小せん学校」とか「三好町通い」と称された。直弟子は取らなかったが、五代目志ん生、八代目正蔵(林家彦六)、六代目円生、三代目金馬など、後に名人と呼ばれる落語家が小せんから直接教えを受けています。小せん最後の高座は、大正8年(1919)5月、下谷金杉の壽亭で得意ネタだった「居残り佐平次」で、その数日後の5月26日に三好の自宅で心臓麻痺のため、37歳で死去。速記本には『柳家小せん落語全集』『廓ばなし小せん十八番』等がある。

脳脊髄梅毒症:梅毒の症状は、第1期 感染後3週間 - 3か月の状態。トレポネーマが侵入した部位(陰部、口唇部、口腔内)に塊(無痛性の硬結で膿を出すようになる。塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる。
 第2期 感染後3か月 - 3年の状態。全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦怠感、関節痛などの症状がでる。
 潜伏期 前期潜伏期:第2期の症状が消えるとともに始まる。潜伏期が始まってからの2年から3年間は、第2期の症状を再発する場合がある。 後期潜伏期:不顕性感染の期間で数年から数十年経過する場合もある。
 江戸時代には、この症状が休止したのを全快したと喜んだが・・・。平均寿命が短かったので、最終の症状が出るまえに寿命が切れた人も多かった。
 第3期 感染後3-10年の状態。医療の発達した現代では、このような症例をみることは稀。
 第4期 感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし(脳(脊髄)梅毒、脳梅)、死亡する。現在は稀である。
 この怖い梅毒症を放置し、第4期まで進行させて死に至った小せんは痛ましい。なお、ペニシリンの実用化は1942年になってからで、小せんには間に合わなかった。

 梅毒は、日本へは1512年に記録上に初めて登場している。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播からわずか20年でほぼ地球を一周したことになる。著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長など、外国では、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマン、ベドルジハ・スメタナ、アル・カポネ、ギ・ド・モーパッサンなどが梅毒で死亡したとみられている。梅毒が性感染症であることは古くから経験的に知られ、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた。 江戸の一般庶民への梅毒感染率は実に50%であったとも推測される。 抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。
 落語の中にも遊ぶと”瘡をかく”と言って警戒されました。

雨の晩;遊廓を始め、客商売のところは、客足が減るもんです。飲み屋さんで客が減少すると、はしごの2軒目はもっと減ってしまいます。続いてラブホテルも空室が目立つようになると言われています。
 逆にこの噺のように、雨の中でも来てくれる客は、貴重で大切にしてくれます。雨だけでは無く、台風や日本シリーズなどでは、同じように客足が減るので、来てくれたお客様は神様です。でも・・・、同じ考えは誰しも思うもので、以外と混んでいたりします。スナックで、モテたいと思って若い時に行ったのは良いんですが、店中の女の子が集まって、支払いに難儀したことがありました。モテたのでは無く、カモにされただけだったのです。

変り台(かわりだい);吉原で飲食を注文しても、遊廓では酒は出すが料理をしませんので、蕎麦、菓子、寿司、甘味、酒の肴などの料理は出前を頼みます。刺身などは台の物と言って、台屋(だいや= 料理専門店)から、大きな台に乗せられて料理品が運ばれて来ました。そこで、メインの料理(台の物)の他に、もう何品か頼む副次的料理を、「変り台」と言います。そのため、お料理を注文する事を「(台に)乗せる」 と言う様になり、「好きなお料理を注文しな」と言う事を、粋がって「何でも乗せな」なんて言い方をしました。台屋と言っても、ダイヤモンドを売っている店ではありません。そんな見世があったら、散財どころの話では無くなります。

『台の物』 文政12年 国会図書館蔵。  左ページの松が飾られた台の物、右上が旦那で隣が花魁。

弥助(やすけ);寿司を表す符丁「弥助」ですが、これは、浄瑠璃の「義経千本桜」で、弥助鮨と言う寿司屋が登場するので、ここから、派生した符丁です。この「乗せる(食べる)」と「弥助 (寿司)」は、現代の落語家さんの符丁として、使われることもあります。

花魁(おいらん);妹分の女郎や禿(カブロ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという。江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
 落語家の説では、狐狸は尾で騙すが、吉原の花魁は尻尾が無くても騙すから、お・いらんと言った。

 花の魁(はなのさきがけ)と言うと、意味が違って、他の花に先がけて咲く花。特に、梅の花を指して言います。決して若い女郎の事ではありません。

お茶を挽く;遊女や芸妓が客がなくひまで遊んでいる。ひまな時には、葉茶を臼にかけて粉にする仕事をしたからいう。
 吉原”松葉屋”の女将・福田利子著「吉原はこんな所でございました」を要約すると、違います。
 江戸で遊廓を承認して貰う条件の一つに、太夫3人を奉行所の式日ごとに奉仕に出すこと。と言うのがあって、当番の太夫が奉行所に出向いて琴や三味線の演奏をしたり、お茶の給仕を務めました。太夫と言うのは、飛び抜けて優れた遊女に与えられる敬称で名誉なことでした。当番に当たった前の晩は、客を断って、翌日お点前に使うお茶を挽きました。この、お客を断ってお茶を挽くというのが、いつのまにか、遊女が客を取れないことを”お茶を挽く”と言うよになってしまいました。言葉が変化していった一つです。

宇治でも濃いのを;お茶の濃いのを所望しています。宇治はお茶の名産地ですから、お茶の代名詞として使われました。落語「饅頭怖い」のオチのセリフではありません。

ちょいと行って来るから;吉原は回しと言って、一晩に複数の客を取るのは当たり前でした。で、「ちょいと行って来るから」と言うセリフが出て来ます。朝まで帰ってこない女郎もいたようです。落語にも「五人回し」等に有ります。
 まわしを取られる時は、お客は起きてても仕方が無いので、寝て待つのですが、本当に寝てしまったら何のために来たのか判らなくなりますので、寝たふりをして待ちます。花魁の上草履の音がしてくると、順番が回ってきたかと思って待っていると、上草履の音が遠ざかってしまい、がっかりすることがあります。”間夫はひけどき”と言うこともあって、遅くなっても我慢して待ちます。

甚助(じんすけ);焼き餅をやく。情が深く嫉妬深い性質。また、その性質の男。

若い衆(わかいし);年齢に関係なく妓楼で働く男の奉公人を総称して若い者、若い衆と言った。別名、妓夫(ぎゅう)、喜助(きすけ)とも言った。飯炊きや風呂番の裏方は雇い人と言い、接客に関する男連中を指す。江戸っ子は”わかいし”または”わけいし”と呼んだ。
 仕事は、店番、客引き、案内役、二階の責任者(二階回し)、床回し(寝床の用意)、掛け取り、等が有って、喧嘩口論があれば仲裁に入り、女郎の我が儘があればなだめたり、仕事は多岐にわたっています。

 男仕事ならなんでもやります。左から行灯掃除、油さしA・B、花魁道中の役や店番、付け馬等々。三谷一馬画

間夫(まぶ);情夫。特に、遊女の情夫。遊女が真に惚れた男が情男(いろ)であり、間夫とも言った。
 遊女は真の恋愛にあこがれ「客に身体は許しても心は許さない」の心意気で、間夫を愛した。「間夫は勤めの憂さ晴らし」とも言って、本心好きな男と逢瀬を楽しんだ。客は皆、自分が間夫だと思っています。



                                                            2019年1月記

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