落語「瘤弁慶」の舞台を行く
   

 

 桂小文枝(五代目桂 文枝)の噺、「瘤弁慶」(こぶべんけい)より


 

 東の旅からのお伊勢参りです。喜六と清八のコンビがお詣りを済ませてやって来ましたのが、近江八景を見物しまして大津の宿です。

 「ボ~ッと歩いていると客引き女(留め女)に引き込まれて、変な部屋に通され、不味い食べ物で高い料金を取られるから注意しな」、「どうする」、「『定宿』が有ると言えば、袖は引かん」。宿屋街に入ってくると、両側には提灯が下がり、客引き女が盛んに呼び込みをしています。定宿、定宿と言いながら気持ち良く通過しています。「あんさんがたは先程から定宿と言っていますが、定宿はどちらですか」、「それは、○X△、*+△・・・」、「うちは岡屋です。どうぞお泊まりやす」、「清やん、袖つかんで放さないで」、「これも何かの縁なので、ここに泊まることにしよう」。
 足のすすぎをタライに入れて持って来ます。百姓出のおなごで真っ黒な顔で化粧も慣れていないのでアバタ模様の真っ白け。「お客さん、足洗おうかな。こうして足洗ってると郷を思い出して涙が出てくる」、「郷に残した男の事を思い出して涙しているんだろう」、「おとっつあんが野良仕事から帰ってくると、私が牛の足を洗ってやるが、その牛を思い出して涙が出ただぁ」、「あっちに行け」。
 「派手に陽気に賑やかに、上がらして貰う」、「ひとまずこの部屋で。お茶などを・・・。ところで、どの様なお部屋にしましょうか」、「そうか、どの様になってるかぃ?」、「上・中・並となっております」、「上は?」、「お一人様一晩1分で御座います」、「気に入らんな」、「中は2朱で御座います」、「これも気に入らんな」、「では、並は1朱で御座います」、「益々気に入らんな」、「そうですか。それ以下でしたら、宿場ハズレに木賃宿がありますが・・・」、「チョット待て。気に入らんと言うのは、安いからだ」、「では如何ほどで・・・」、「10両と言う部屋は無いか」、「10両ではご馳走が出来ません。も~少し安いのでは・・・」、「小さく負けるのでは無い。グッと負けて並でどうだ」。「ご飯が先かお風呂が先か、如何しますか」、「風呂に入っているから、そこにお膳を持って来て」、「それは出来ません」、「では、食事をするから、そこに湯を持って来てザブリとかけてくれ」。
 風呂から上がって、食事になって、楽しく杯をやったり取ったり。「わて、隣の部屋にいるもんですが、一人でやっててもつまらないので、仲間に入れて欲しいのですが・・・」、「お膳持ってこっちにいらっしゃい」。「こっちに泊まっている二人連れなんですが、楽しそうなんで仲間に入れてくれますか」、「お膳持ってこちらにいらっしゃい」。こちらから三人連れ、あちらからは10人の団体さん。襖を開けて、ぶち抜きにし、車座になって賑やかにやりましょう。大宴会になった。
 突然男が駆け込んできた。「ごめんやす。皆さんが居るので助かりました。八本足の怪物が出たんです。廊下の壁にベタッと張り付いていました」、「それは蜘蛛ではありませんか」、「蜘蛛だんね」、「その大きさだったら普通の蜘蛛だすね。それが恐いのか?」、「身の毛がよだつのです」。「嫌いではいろいろあるが、好きな物は?」、「私はお酒」、「貴方は?」、「二番目が酒だすな」、「そうだろうね。で、一番は・・・」、「おなご」。「あんたは?」、「寿司だんね」、「私は羊羹」、「私は土」、「えッ? 泥の土でッか」、「そうです。今歩いて来たら壁土が剥がれてこぼれていたんです。食べたかったんです」、「落ちている物ですから、食べたら良いんです。わてら付いて行きますから見せてください」、「イイですよ。・・・ここです。古い方が美味いんです」、「あんた、ヨダレ垂らしてまんな」、「食べさせていただきます。旨いな~」。
 銘々自分の部屋に戻って、ガラリと朝が来ました。

 それぞれに目的地に向かって旅立っていきます。

 昨日壁土を食べた男が夜中から熱を出してしまった。三日ほどしまして、いつまでも宿に居ることは出来ないので駕籠を頼んで京都の綾小路麩屋町というアヤフヤな町にある自宅に帰ってきた。熱は下がったが、右肩にオデキのような物ができて、それが大きくなって人の頭ほどになった。目鼻口が出来て喋り始めた。「ワシは武蔵坊弁慶だ。大津の宿・岡屋半左衛門で壁土を食らったことがあるだろう」、「へへぇ、有ります」、「あの壁土には大津の絵師・浮世又平が描いた、わしの絵姿が塗り込められていた。壁土から抜け出そうとしたが、そなたが壁土をくろうた、その方の身体を借りて出て来た。これから日に二升の酒と三升の飯と女郎買いに連れて行け」、「そんなウルサいこと言ぃないな」。
 弁慶好き勝手を言うし、気に入らないとボーンと頭突きを食わせる。医者に診せると、「この瘤を切ると命に関わる」、と言われた。
 心配した友達が見舞いに来た。「医者が駄目なら、神仏に頼らなだめだな。蛸薬師さんにお詣りし、蛸を断って瘤と言わずイボと言って一心に拝めば取れるかも知れない」、「では、蛸薬師さんに行ってみるか」。
 それから蛸薬師さんに日参、寺町に出て来ますと、入相の鐘が鳴り出します。それを聞きつけた弁慶、「陣鐘であろう」、「あれはお寺の鐘です。静かにして下さい」。麩屋町の方に出て来ますと、いずくの殿様の行列が「控え、控え」。弁慶何を思ったか、行列の中にどどど~ッと入って行った。「狼藉者、出合え出合え」、弁慶、頑として動かない。駕籠の棒鼻に手を付いて、芝居口調で「我が名が聞きたくば名乗って聞かせん」と、大見得を切った。
 殿様駕籠を止めて、「無礼者。手打ちに致す。それへ直れッ」、「堪忍しておくれやす。わて何にも知りませんのや。この瘤が言ったので、助けておくれやす」、「昼間なら勘弁もしようが、夜の瘤は見逃しがならんわい」。




ことば

不可解なオチ;『夜の瘤は見逃しがならん』、「夜の昆布は見逃すな」ということわざのもじり。「夜の昆布」と「喜ぶ」をかけた洒落で、『譬喩尽』には「夜の昆布は乞ふても喰へ」とある。 これには異説があり、「コブ」とはクモのことで、落ちは「夜のクモは殺せ」ということわざに由来するとも言われる。『日葡辞書』には「Cobu 大蜘蛛 下 の語」とある。ここでの「下」とは西国すなわち九州を指す。しかし作者の吾竹の伝記は何もわからないので、彼がクモを「コブ」と呼ぶ地域の出身であった保証はない。
  いずれにせよ元になった言い回しの意味が忘れ去られているため、新たに別の落ちが考案されており、そこでは男のコブの正体が弁慶であると聞いた殿さまが「手打ちは義経に」、つまり、よさなければならないと答える。これは同じく落語の『青菜』から流用したもので、二代目桂枝雀が用いたが、近年はこちらで落とす演者も多くなってきた。 本作は『伊勢参宮神乃賑』の一編である「矢橋船」と同じく、視点が喜六と清八から『壁土好きの男』に移ってしまう特殊な構成になっている。
 大津の宿に出てくる客引き娘の恐ろしい描写は他の旅話にも引用されており、上方落語でシコメを表す典型となっている。
ウイキペディアより
 私の概略ではそんなシコメを描くには忍びないので、カットしています。

『伊勢参宮神乃賑』(いせさんぐうかみのにぎわい)、通称『東の旅』(ひがしのたび)は、大坂から伊勢参りをして大坂まで戻る喜六と清八による道中を描いた一連の上方落語。『伊勢参宮神之賑』の表記もある。
・大坂から奈良を通って伊勢へ、
『発端』→『奈良名所』→『野辺』→『煮売屋』→『七度狐』→『うんつく酒』→『常太夫義太夫』→『鯉津栄之助』→『三人旅浮之尼買』。
・伊勢神宮にお参り、
『間の山お杉お玉』→『宮巡り』。
・近江・京都を廻って大坂に戻ってくるまでの道中
『軽石屁』→『これこれ博打』→『高宮川天狗酒盛』→『矢橋船』→『宿屋町』→『こぶ弁慶』→『走り餅』→『京名所』→『三十石夢乃通路』。
落語「百人坊主」でも伊勢参りに行っています。

;「日本で、もっとも往来の激しい街道は、東海道ですが、日毎に信じられぬほどの人々で埋め尽くされていた。ある季節にはヨーロッパの大都市より賑わっている。その理由は、自ら好んですると、必要に迫られてするとを問わず、異国民と異なり、日本人は数多く旅を試みるからである」。オランダ人医師、ケンペルが元禄(1688-1704)初期に記した「江戸参府紀行」に書きとめている。
  この手記より40年近く前、慶安3年(1650)全国から伊勢参りの群衆が、旅という形で街道を往来していた。60年ごとに伊勢参りの大群衆が伊勢を目指して旅をした。
  江戸中期以降、参勤交代という公的な旅の他、一般庶民が社寺参拝という名目で旅に出た。江戸っ子からすると、大山詣り、富士詣り、成田詣り、箱根の湯治、江ノ島見物、金沢八景めぐり、伊勢詣り、上方見物などの目的で旅に出た。
 落語「三人旅」より

 歩く速度というと、普通一日10里(約40km)を歩きました。1日8時間ぐらいで、食事も休憩も入れてですから、テレテレ歩いていたら到底歩けません。前屈みでツッツ ツッツと歩きました。江戸-京都間を2週間弱(12~13日)で歩き通しました。

■近江八景(おおみはっけい);近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。
 石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)
 勢多(瀬田)夕照 [せた の せきしょう] = 瀬田の唐橋(大津市)
 粟津晴嵐 [あわづ の せいらん] = 粟津原(大津市)
 矢橋帰帆 [やばせ の きはん] = 矢橋(草津市)
 三井晩鐘 [みい の ばんしょう] = 三井寺(園城寺)(大津市)
 唐崎夜雨 [からさき の やう] = 唐崎神社(大津市)
 堅田落雁 [かたた の らくがん] = 浮御堂(大津市)
 比良暮雪 [ひら の ぼせつ] = 比良山系

 中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」(北宋時代成立)になぞらえて、琵琶湖の南部から八箇所の名所を選んだもの。 


石山秋月                        勢多夕照                           粟津晴嵐                       矢橋帰帆


三井晩鐘            唐崎夜雨           堅田落雁          比良暮雪(下絵)

 「近江八景」 広重画 どの図もクリックすると大きくなります。

大津宿(おおつしゅく、おおつじゅく);東海道53番目(東海道五十三次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。次の宿は京都で終点となります。また、大津の手前は草津で、中山道と東海道が分岐する宿です。
 江戸時代、大津と京都を結ぶ旧東海道の区間では牛車の往来をスムーズにするために道に「車石」と呼ばれる花崗岩の石が敷かれた。明治時代に馬車の利用が進むと車石は撤去され、撤去された車石は石垣などに利用された。
右図:東海道五十三次の内「大津」 広重画。 宿駅の走井(はしりい)茶屋と清水がこんこんと湧き出る井戸、米や薪を積んで牛車が通っていきます。

定宿(じょうやど);毎回同じ宿屋に泊まること。噺の中では「定宿」だと言えば、客引きからの強引な勧誘を逃れることが出来ると言っています。

客引き;街道では客の奪い合いは日常茶飯事です。留め女と言います。
  ちゃや女「お休みなさいヤアし。酔わない酒もござりやアす。ばりばりする強飯をあがりやアし。」
  馬方「だんな生きた馬はどふだ。やすくやりませう。馬は達者だ。はねることはうけ合いだ。」
 かごかき「かごよしかの。だんな戻り駕籠だ。やすくいきましやう。」
東海道中膝栗毛より
右図;人物東海道五十三次「御油」部分 広重画
御油、赤坂間わずか16町(約1.7km)しかなかったので、両宿とも留め女が大活躍。
落語「三人旅」より

一分(いちぶ);4分の1両=4朱。1両を8万円とすると、1分は2万円(上部屋)。2朱は1万円(中部屋)。1朱は5千円(並部屋)になります。

アヤフヤな町;街に掛かった看板の町名は「綾小路麩屋町」。 町内案内板の名称は「麩屋町綾小路」。統一が出来ていません。どっちなのでしょう。「小路麩屋町」からアヤ小路フヤ町」と言われます。
 すぐ北の通りは京都一の繁華街四条通、すぐ東は電気の町寺町。高島屋や藤井大丸などのデパートもすぐの位置です。この綾小路通りも麩屋町通りも車一台通るのが精一杯の狭く細い通りです。ここに住んでる人は自分の住んでるところが「あやふやな町」と呼ばれていることご存じなのかなと思ってしまいます。
 京都の町は碁盤の目のように各通りが直角に交差しています。綾小路通りは東西の、麩屋町通りは南北の通りです。蛸薬師へは歩いて10分かかりません。


武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい );(? - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。和歌山県田辺市では、毎年10月第1金曜・土曜日に弁慶誕生の地に因んだ、弁慶まつりを開催している。 元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけであり、『平家物語』では義経郎党として名があるのみで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。

大津絵(おおつえ);東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。
 江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。
右図:大津絵の弁慶。

絵師浮世又平(えし うきよまたべい);歌舞伎「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」に出て来る絵描き。狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたもの。
又平は人がよく絵の腕は抜群なのだが、生まれついての吃音の障害を持ち、欲がない。折角の腕を持ちながら大津絵を書いて生計を送る有様である。そんな弟子にいら立ちを覚えた師は覇気がないとみなしていた。
 劇中の人物で実在の人物ではありません。大津絵は今も昔も無名の画工たちによって描き続けられています。

蛸薬師(たこやくし);京都市中京区新京極通蛸薬師下ル東側町503。京都の蛸薬師は永福寺の本尊とされ、奉納される小絵馬には蛸と着物姿の女が描かれている。本来の永福寺本尊は伝教大師が製作した薬師如来で、水上薬師ないし沢薬師と呼ばれていた。時代を経る毎にこれが誤って蛸薬師と伝えられるようになり、江戸時代の『都名所図会』には既に「蛸薬師は永福寺と号し、円福寺境内にあり」と紹介されていた。その後円福寺は1788年、1864年の大火で類焼し、1883年に三河国岩津村へと移された。この際、岩津村にあった妙心寺が京都へ移され、現在の永福寺となっているが、本尊は変わらず蛸薬師のままになったという。江戸時代に刊行された菊岡沾凉の『本朝俗諺志』には蛸薬師の効能として、蛸の絵馬を書き、物絶をして祈ると疣(いぼ)や痣(あざ)に効く不思議な効験があると紹介されている。その他、井上頼寿の『京都民俗志』では民家に蛸地蔵尊が祀られていたという話を紹介しており、蛸薬師信仰が民間レベルで浸透していたと考えられます。

寺町(てらまち);寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。
 都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を通る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。
 麩屋街通りの東に二本目の通りが寺町通りです。

入相の鐘(いりあいのかね);日暮に寺でつく鐘。晩鐘。

陣鐘(じんかね);陣中で軍勢の進退の合図に鳴らす銅鑼(ドラ)または半鐘。

駕籠の棒鼻(かごのぼうばな);(駕籠などの)棒の先端。転じて、いちばん先。最初。先頭。

 

 駕籠。担ぐ棒の先端を棒鼻と言い、ここを押さえられると前に進むことが出来なくなります。江戸東京博物館蔵。



                                                            2017年4月記

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