落語「雨夜の傘」の舞台を行く
   

 

 二代目 露の五郎兵衛の噺、怪談「雨夜の傘」(あまよのかさ)より


 

 大坂に”ノバク”と言うところが有った。ここは枯れ落ち葉が風に吹き寄せられたような吹きだまりと同じように、貧しい人達が肩を寄せ合い多く住んでいた。ここに村田堂庵(どうあん)という医者が住んでいた。この医者は金さえ貰えば病人でも殺すという非道な医者。飲む打つ買うは当たり前、近所ではあの医者に掛かるくらいだったら葬儀屋に頼んだ方が早いという始末。医者は坊主頭だったので、坊主の堂庵と呼ばれていた。

 奈良の懇意先からの帰り道、奈良街道を大坂に向かって『暗がり峠』の手前に有る『室の木峠』に差しかかって来ると、雑木林の中から「ウ~~ン」といううなり声。医者ですから見てみると、浪人風情で片腹を押さえて唸っています。「診て進ぜよう」と懐から手を入れ腹を探りにいったら、50両の金包みに手が触れた。薬代より50両の方が分が良いと、胴巻きを引き抜き、その紐で首を絞めてそのままに大坂へ。物取りの仕業だろうと言うことになって、事件はうやむやに・・・。

 生地伊勢の松阪には妹・お絹(おきぬ)さんが住んでいて、大坂の堂庵の所に訪ねて来た。お絹さんの亭主・伊丹兵吾(いたみひょうご)は寺子屋をやっていたが、仕官をしたくて小金を持って大坂に出て来たが行方不明になっている。「その亭主を探して欲しい」と懇願した。
 村田堂庵、腹の中ではあの峠で殺めて50両の金を奪ったのは妹の亭主かと思ったが顔には出さず、色々なところで探してやるから、家でゆっくりしていろとなだめた。お菊さんには20歳になるお小夜(おさよ)という娘が居た。大坂に呼び出してみると、絶世の美女、べっぴんです。これを見た堂庵、悪心を起こして、ウワバミの三次別名を飲み込みの三次という博打友達に頼んで新町の廓に10両ではめ込んでしまった。お絹さんには鍋島さんの蔵屋敷に下女奉公に出してあるとウソを付いていた。
 亭主を探すのに金が要ると、お絹さんに何回も無心をして有り金を全部引き出し無一文に。娘は居なくなり、気が弱って体調を崩し病に取り憑かれた。普通でしたら医者の家に居るんですからこれ程の気丈な事は有りませんが、先程から言っているような医者ですから、ロクに薬もくれません。

 その上、食べ物も与えず、骨と皮ばかりになってしまいました。医者の家に病人が居たら仕事に差し障りが有ると、2階にセンベイ布団を敷いて、一斗樽に握り飯10個ほど与え、トイレに飯付きだと、ハシゴを外してしまった。
 お絹さんは、亭主のこと、娘のこと心配でたまらず、階下の堂庵に声を掛けるが、「ウルサいッ!」と取り合ってくれない。その上、煮え湯の入ったヤカンを投げたものですから、それが当たって顔面が割れ反面が火傷で、お芝居で言うお岩様か累(かさね)様のようなスゴイ形相になってしまいました。
 毎日、「兄さん、兄さん」と呼ぶ声がしますが、怒って相手にしません。死期が迫ってきたのか、色々な事を言うようになってきたが、血肉を分けた妹、自分から手を出す事が出来ません。

 そこに飲み込みの三次が博打に誘いに来た。金を無心に来たのを察し、仕事が有ると誘い込んだ。医者だから死期が迫ったのが良く分かるから、「俺は医者だ。殺してくれと頼んではいなぞ。苦しんでいるから、早く楽にさせてくれと、言ってるんだ」。三次を1両で納得させて、「女中奉公に出しているお小夜さんに会わせると言って連れ出せ」、と話がまとまった。
 2階から下りてきたお絹さんだが、火傷をしたときから目が不自由になって、目が見えなくなっていた。三次に「よろしく・・・」という、何も知らないお絹さんだった。向こうに行って手土産だと言って渡したのが、出刃包丁を手拭いにキリキリと巻いたものだった。目が見えないお絹さんは何も解らず出掛けることになった。
 外に出ると雨が降っているので、堂庵に傘を借りて、お絹さん三次の相合い傘で鍋島さんの蔵屋敷の方に向かって歩き出した。農人橋に差しかかった時には陽もとっぷりと暮れておりました。
 (下座から三味線とドロドロの太鼓が入る) 「小用を足したいので、傘持って向こうを向いていてくれ」と頼んだが、その時、出刃包丁でお絹さん刺し、「お絹さんには恨みはないが、恨みが有るなら堂庵さんの所に行って・・・」、と腹をグリグリえぐり、血だらけになった身体を下の川に投げ込んだ。

 「堂庵さん、殺って来たぜ」、「『殺って来た』じゃないだろう。お絹が死んだ頃、壁に幽霊が出た。お前は要らん事を口走ったな。湯飲みを投げつけると消えたが、そんなドジな仕事をするようじゃ金も渡せん」、と脅かされた。
 三次はトボトボと家に帰って、やけ酒を飲んで寝ようとすると、表の戸を叩く人が居た。「こんな夜遅く。誰だ。ダレッ!」、戸を開けると誰も居ない。床に入ると、またトントン。行灯の火で煙草に火を点けると、「そこに居るのは誰だッ」、(下座の音が大きくなる)。「うらめしや~、罪も無い者を、よ~ むごたらしく殺したなぁ~」(客席から悲鳴が聞こえた。客席ざわつく)。「生き替わり、死に替わり~、共に奈落へ~、付いて行かん」、「ヒィエー、ヒィエー、ヒィエ~~」。(ドロの太鼓が大きく響く)。
 はて恐ろしい、(柝がチョーンと入り) 執念じゃなぁ~。
 失礼を致しました。 

 


 * この概略はテープから起こしています。その為、名前の表記が違っているかも知れません。悪しからずご了承ください。正解をご存じの方がいらしたら是非お教え下さい。

ことば

二代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ);(1932年3月5日 - 2009年3月30日)、落語家、大阪俄の俄師。 本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)。上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。
 二代目春団治の側近として修業を重ねた。晩年の三遊亭志ん蔵にかわいがられ、志ん蔵が怪談噺を演じる際に、客席に乱入する幽霊役を演じた。
 1987年に亭号の表記を「露の五郎」に改める。1994年、上方落語協会会長に就任し、2003年まで務めた(後任は桂三枝(現:六代目桂文枝))。2005年10月、前名「五郎」の由来である大名跡「二代目露の五郎兵衛」を襲名。同年には歌舞伎の四代目坂田藤十郎の襲名披露もあり、両界そろって数百年ぶりの名跡復活が話題となった。晩年は病に苦しみ、2002年9月に脳内出血、同年11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。
 2009年3月30日、多臓器不全のため77歳で死去。
 詳しくは、らくご「酒の粕」にあります。

 彼の噺、次の噺を公開しています。「紀州飛脚」、「蛸坊主」、「宿屋かか」、「酒の粕」等があります。

・俄(にわか);吉原の俄狂言の始まりは安永、天明の頃、仲ノ町の茶屋桐屋伊兵衛が、歌舞伎の真似事が好きで、角町の妓楼中萬字楼その他二,三と相談し、思いつきの俄狂言を作って仲ノ町を往還しました。これが大当たりに当たり、面白い、風流だと評判になり、引き続いて狂言の趣向をこらしたのが俄の始めで、毎秋の定例になったといいます。
 守貞漫稿によると、毎年八月朔日(ついたち)より晦日に至る、秋葉権現の祭礼にあわせてこれを行う也。男女芸者種々に扮し、男は芝居狂言に洒落を加へ、女は踊り所作の類を専らとし、各囃子方を備えて之をゆく。男女各舞台を別にし車ある小舞台数個を作り、仲之町両側を引き巡り、茶屋一戸毎に一狂言して次に行くと、次の台を引来たり、又これを行く。女舞台、男舞台相交へひく也。


 女芸者連の獅子行列。芸者は手古舞姿で行列を組んでいます。茶屋の前では車のついた舞台の上で、奴と犬が魚をつかんで見得を切っています。その横に、唄・三味線・鼓の四人の囃子方がいます。
「江戸吉原図聚」 三谷一馬画より。

客席から「キャァー」の悲鳴;噺も進んで後半山場の幽霊が出る段になったら、客席は息を吞んでシーンとなっているところに、急に客席から「キャァー」の悲鳴。一瞬場内がザワメキ、その後から場内から安堵の声と小さな笑い声が響いてきました。お弟子さんが客席の後ろの方で、弱そうな娘さんに冷たい物で首筋を触れたのでしょう。
 今回は成功しましたが、娘さんにノックアウトされたお弟子さんも有ったといいます。噺の後で解説に「普段は幽霊役に客席からご祝儀が出るのですが、今回は・・・」。

ノバク(野漠);寛永7年(1630)に徳川家御用瓦師・寺島藤右衛門が大坂拝領地として、幕府から南瓦町の地をいただき、その地が瓦土取場となり、以来200年間瓦の製造のため掘り続けた結果、すり鉢の底のような窪んだ土地になった。この地は寺島藤右衛門請地で、坪数に直すと約27,000坪(約90万平方メートル)の広さが有ったといいます。
 東側は谷町筋裏、西側は松屋町筋裏町、北側は安堂寺橋通坂下、南側は空堀の北側に囲まれた地域でした。
 現在の中央区谷町六丁目、瓦屋町一丁目辺り。露乃五郎兵衛は南区西賑町(昭和57年8月録音テープから)と言っていますが、それは旧名で今は南区と東区が合併して中央区になっています。西振町は現在の桃園公園の西側を含む地(谷町六丁目)でした。

暗峠(くらがりとうげ);国道308号線奈良県と大阪府の県境に有ります。下写真。現在は第二阪奈有料道路のトンネルで一気に抜けられますが、今でも残っている急坂と車一台がやっと通れる国道です。落語「百人坊主」でも説明しているとおり、あまりにも急坂だったためにここは通らず、大津の方から迂回して奈良に入っています。

室の木峠(むろのきとうげ);奈良市と生駒市と大和郡山市の三市にまたがった『室の木峠』。室の木峠最難関区間弘法大師堂まで奈良から一気に700m区間で90mを登りきる。その後一気に155m下り南生駒の町に出ます。昔ながらの峠道ですが、308号線の国道です。今はバイパスの有料道路が並行して走っていて、この峠の下はトンネルで抜けています。

 「室の木峠」 Googleより

伊勢の松阪(いせのまつざか);お絹さん一家が住んでいたところ。松阪市(まつさかし)は、三重県の中部に位置し、伊勢湾に面する市。松阪牛の生産で知られる。気候は比較的温暖。 江戸時代は伊勢商人を輩出した商業町で、三井家発祥地でも有ります。現在も紀勢本線や近鉄大阪線・山田線沿線を後背地に持つ三重県の経済拠点のひとつ。江戸時代は紀州藩領であった。東には伊勢志摩の観光地を控え、伊勢神宮の入口でも有った。

新町の廓(しんまちのくるわ);新町遊廓(しんまちゆうかく)は、大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。現在の大阪市西区新町1~2丁目に存在した。火災後、街並みが整備され、現在はその面影は残っていない。
 豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。
 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいた。
 落語「土橋漫才」に新町の図が有ります。

鍋島さんの蔵屋敷(なべしまさんの くらやしき);佐賀藩蔵屋敷、明暦元年(1665)には堂島川に面した天満11丁目に有った。元禄5年(1692)には、多数の米蔵の他、米売り場等の業務施設、留守居小屋、役人小屋等の居住施設、藩主のための館、堂島川から船で直接屋敷に入る事が出来る船入等を有し、敷地4200坪に達した。西国諸藩の蔵屋敷中最大級の規模で有った。この屋敷は、享保9年(1724)の大火で焼失し、その後に再建された。蔵屋敷は、その後明治4年(1871)に退去するまで、同地に在り続けました。
 現在の大阪市北区西天満2丁目、大阪高等裁判所の外周、植え込みの中に「佐賀藩蔵屋敷跡」の碑が建っていて、この地に蔵屋敷を構えていました。

お岩様か累(かさね)様;怪談お岩様は、落語「ぞろぞろ」に詳しい。
 怪談真景累ヶ淵(しんけい かさねがふち)の主人公達。旗本が金貸しで鍼医の皆川宗悦を切り殺したことを発端に両者の子孫が次々と不幸に陥っていく話。落語「真景累ケ淵」に詳しい。富本の師匠豊志賀は反面腫れ上がって・・・。また、婚礼の晩ヘビが出て、逃げた拍子に煮え湯で顔に大やけどを負うお累さん。

右図:「お岩さん」 国芳画

農人橋(のうにんばし);大阪市中央区にある東横堀川に架かる中央大通平面道路の橋、または、同橋東詰付近の町名。1600年(慶長5年)の記録に久太郎町橋と記されている橋が最初の農人橋といわれている。江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』に「いにしへ川西船場に田圃多くして、上町より農民かよひて耕作をなす」と記載され、豊臣期に市街化していた上町側(東側)から市街化する以前の船場側(西側)の農地へ渡るために架橋された。 江戸時代には谷町筋以東に大坂城代下屋敷・京橋口定番与力屋敷・大坂町奉行御金蔵などが立地し、公儀橋の一つだったが、日常の維持管理は橋周辺の町々に課せられ、東は谷町筋から西は御堂筋あたりの橋筋が橋掛かり町の範囲だった。

 

 現在の谷町(ノバク)から松屋町筋を北に行くと、1.2kmほどで高速道路の下に有る橋、農人橋に出ます。鍋島さんの蔵屋敷にはまだ北に、2.4km程歩かなければ行けません。また、新町遊廓へはノバクから西に直線で1.8km程有ります。

奈落(ならく);地獄。永久に浮ぶ瀬のないところ。

執念(しゅうねん);思い込んで動かない一念。執着して離れない心。怪談物の常套句。



                                                            2017年5月記

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