落語「ふぐわ口」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「ふぐわ口」(ふぐわくち)より


 

 春は浮気、夏は陽気で秋ふさぎ 冬は陰気で暮れはまごつき。

 現在では現金商売ですから掛け取りと言うことがありません。少し前までは、盆暮れには掛け取りが来たものです。越されないという暮れも、いつの間にか越してしまうのです。
『味噌こしのそこに貯まりし大晦日 越すに越されず、越されずに越す』。『元日や昨日の鬼が礼に来る』。

 「今日は節分だよ。借金取りが大勢来るよ」、「首まで持って行かないよ。一昨年の死んだ真似しようか」、「ダメだよ。大家さんが来て、お茶で涙していたら『目にお茶ガラが付いてますよ』と言われ、『これは香典だよ』と渡されたが、死んでも居ないので断ると、お前さんが早桶から『もらっておけ』と言うから、大家さん『キャ~』と言って腰抜かして、あれから歩き方がおかしいんだよ」。
 「好きなものに心を奪われるだろう。今年はそれで行こう。誰か来るよ」、「大家さん。『狂歌家主』と言われるように狂歌が大好きだよ」、「大家が来た、『福は内などと言う間に掛け取りの鬼が外から入りとぞ来る』」、「俺は鬼だから入るよ。狂歌を吐いたか?」、「『世の中に貸しの催促する奴は 不人情とも義理知らずとも』」、「お前の方こそ義理知らずだ。同じ言うなら『世の中は親子兄弟たりとても金銀ずくは正しかるべし』。で、いつ払う」、「晦日になったら必ず払います」、「きっとだよ」、「良い大家さんだ」。

 「酒屋の番頭さんが来たよ」、「何が好きだ」、「歌舞伎だよ」、「そうだ『酒井の太鼓』で豆撒こう」、「炬燵の上に上がって豆撒いてるよ。今日の勘定はどうするんだぃ」、「『寄せたりだ~、まず第一は・・・。』」、「歌舞伎が好きだと言ったって、ダメだよ」、「『近う、近うォ参れッ』」、「うんッ?、『はは~』」、「『良く聞け、・・・合点がいったか』」、「『はは~ッ』」、「急いで行け!」、「はは~ッ」、「行っちゃったよ」、「安直だね~」。

 「また来たよ。薪屋さん」、「何が好きだ」、「天麩羅」、「天麩羅じゃダメだ。他には?」、「喧嘩」、「薪だっぽうを持って来い」、「おッ、居たな。今日はどんな事があっても貰うまでは帰(けえ)らないぞッ」、「俺も男だ、払うまでは帰さね~」、「俺の考えで帰らないんだ」、「帰れめ~。ふん詰まり、意気地なし」、「なにッ」、「帰れめ~、意気地なし、帰れめ~、帰れめ~」、「帰らなくてよ~」、「あ~・・・驚いた。帰っちゃったよ」、「俺も驚いた」。

 「また来たよ。魚金さん」、「何が好きだ」、「寄席芸の小唄や端唄」、「踊りは出来ないから、唄を歌って誤魔化そう。酒の換わりに番茶薄めて徳利に入れてこい。お猪口だよ。渋口で酒柱が立ってる」。
 「酒飲んで酔っ払うぐらいなら、魚代ぐらい払えよ」、「ま、一杯やれよ」、「勘定払ってからにしろよ」、「飲んでくれよ」、「飲んだから、『勘定は後だッ』はだめだよ」、「言わない」、「ではッ。・・・、変な色してんな。悪い酒飲むなよ。う・うッ、これはお茶じゃないか」、「へへへ、お茶けで御座んす」。端唄小唄の題名を集めて、勘定を待って貰う。「判ったよ。待つよ」、「噺家にこれだけしゃべらせて、帰っちゃうのかい。1本おごってくれよ」、「しょうが無いな、奥さん、伊勢屋から俺の名前で1本持って来な」、「魚も」、「おんぶにだっこだな」、「なんでも良いよ」、「芸人だから当たる物が良いだろう」、「なに?」、「河豚(フグ)」、「フグ当たるのはいけないよ~」、「大丈夫だ。料理の腕だ。俺がさばくから大丈夫だ」。
 「酒から肴まですいませんね。私からお毒味。お茶けとは大違い」、「ガブガブ飲んでないで、なんかやれよ」、「最近は厄祓いが来ませんね。では、『あ~ら呑みたいな呑みたいな 今晩今宵のご祝儀に酒づくしで祓うなら、一夜明ければ屠蘇の酒、百薬の養老酒には高砂の上に群がる天の鶴、下には亀の万年酒 老いも若いも若緑 気性は日本一の男ぶり呑めや年頭菊の花 足もひょろひょろお目出度く帰りが遅く七つん場ご新造さんが利き酒や 私が甘い蜜柑酒故他に生娘でも甘酒か、ほんの悋気の角樽か 燗しておくれはよい上戸 かかる目出度き折からに東(あずま)外道が飛んできて妨げなさんとするところ 濃い泡盛や焼酎やウイスキーが拐掴み西ノ海とは思えども酒づくしの事なれば新川新堀 池田伊丹を早越えて、一升枡でガブリガブリ』とは、どうです」。
 「出来たよ。河豚が煮えてきたよ。箸で挟んで口に入れてあげるからな。甘ったれなッ、入れるよ。福は内、フグは口ッ」、「チョット待ってくださいな。ホネは外~~」。

 



ことば

年の瀬(としのせ);「越すに越されず 越されずに越す大晦日」
厄祓いの時期(やくばらいのじき);地域によって異なるものの、「年の節目である新年正月元旦に行う」ケース(一番祈祷)、「年の節目を旧正月と考え、厄年の区切りも旧正月からとし、節分にあわせて行う」ケース(厄祓い節分祭など)、「年始から節分までに行う」ケースが多く見られる。 落語「厄祓い」は節分にあわせて行うので、クリスマスイブではありませんが、この日をはずしたら来年まで待たなくてはなりません。 厄祓い」の与太郎さんが心配していた祝儀は、江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。桂米朝ですらこの様なしきたりは知らないと言います。

節分(せつぶん);季節の節目のことを言います。各季節の始まりである立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを指します。江戸時代以降では、立春(2月4日=年により若干のズレがある)の前日である2月3日を節分とする場合がほとんどで、旧暦では、立春が一年の始まり(元旦)だったとされています。今でも年賀状には、新春の言葉が多用されます。『新春明けましておめでとうございます』、『新春のお慶び・・・』等、真冬なのにね~。
 つまり、2月3日の節分は、今で言うところの「大晦日(おおみそか)」にあたるわけです。節分の日には、神社やお寺で「節分会(せつぶんえ)」「節分祭」や「厄除け祈願祭」などが行なわれますが、これは、旧暦の大晦日にあたる2月3日に一年の厄を祓って新しい一年を迎えましょうという古くからの風習が今に残ったものです。

借金取り;掛けの支払いが、どうしても精算しなければならないのが、盆・暮れの年二回です。特に歳末は、商家にとっては掛売りの貸金が回収できるか、また、貧乏人にとっては、時間切れで逃げ切って踏み倒せるかが、ともに死活問題です。むろん、普段掛売りするのは、同じ町内の酒屋・米屋・炭屋・魚屋などなじみの生活必需品に限られます。落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったようです。
 この時期、大晦日の川柳を振るのがお決まりで、小さんもマクラで説明しています。「大晦日首でも取ってくる気なり」、「大晦日首でよければやる気なり」、「大晦日もうこれまでと首くくり」、「大晦日とうとう猫は蹴飛ばされ」 などが、大晦日のドタバタを描いています。また、「大晦日益々怖い顔になり」、「大晦日今はヘソクリあてにする」、「押し入れで息を殺して大晦日」、「大晦日箱提灯は恐くない」これは武士が持つのが箱提灯で、普段は避けて通るのですが、大晦日は掛け取りが持って歩く弓張り提灯の方が恐かった。
 『元日やことしも有るぞ大晦日』

同じような噺;年越しに苦労する人達、
 金馬で「狂歌家主」、小さん「言い訳座頭」、小三治「にらみ返し」、「厄祓い」、「掛け取り漫才」、餅も搗けない夫婦は「尻餅」で、めでたく正月を迎えると、「正月丁稚」、「御慶」、「かつぎや(七福神)」等と正月のバタバタがあります。

 金馬は別題の話「狂歌家主」をやっています。この噺の中にも家主が出てきて、家主が主人公のひとりで、狂歌で太刀打ちします。たっぷりと狂歌の噺が続きますが、この噺では時間の関係(?)でダイジェストになっています。
 この噺は、落語事典では最大の収録数を誇る東大落語会編(青蛙房出版)にも載っていない珍品です。それは現在厄祓いが来ませんし、厄祓いのセリフが現在では解説しても通じないことが多くあり理解が出来ないことが原因ではないのでしょうか。また、掛け売りの習慣もなくなって、時代に乗り遅れた感のある噺です。

厄祓いの文句;米朝は「あぁ~ら目出度や、目出度やな、目出度いことで祓うなら。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は三千歳、東方朔(と~ぼ~さく)は九千歳(くせんざい)、三浦の大介(お~すけ)百六つ。かかる目出度き折からに、如何なる悪魔が来よ~とも、この厄払いが引っ掴み、西の海へさらり、厄(やっく)払いまひょ」。
 では、金馬はこれを踏まえて、
 『あ~ら呑みたいな呑みたいな 今晩今宵のご祝儀に酒づくしで祓うなら、一夜明ければ屠蘇の酒、百薬の養老酒には高砂の上に群がる天の鶴、下には亀の万年酒 老いも若いも若緑 気性は日本一の男ぶり呑めや年頭菊の花 足もひょろひょろお目出度く帰りが遅く七つん場ご新造さんが利き酒や 私が甘い蜜柑酒ゆえ他に生娘でも甘酒か、ほんの悋気の角樽か 燗しておくれはよい上戸 かかる目出度き折からに東(あずま)外道が飛んできて妨げなさんとするところ 濃い泡盛や焼酎やウイスキーが、かい掴み西ノ海とは思えども酒づくしの事なれば新川新堀 池田伊丹を早越えて、一升枡でガブリガブリ』。

池田伊丹(いけだいたみ)=京都の名酒所。

新川新堀(しんかわしんぼり)=江戸の上方からの下り酒の集荷地。永代橋の際にあって、今でも関西の酒問屋が多く集まっている。
右写真:新川に有る、酒の神様の新川大神宮。

泡盛(あわもり)=沖縄特産の焼酎。多くタイ産の砕米を原料とし、黒麹(クロコウジ)菌で麹にし、これに水と酵母とを加え発酵させ蒸留する。長年熟成したものを沖縄では古酒(クウス)といい芳醇。アルコール30~40%を含む。

焼酎(しょうちゅう)=蒸留酒の一種。日本酒製造の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留したもの。または米・麦・粟・黍(キビ)・稗(ヒエ)・玉蜀黍(トウモロコシ)・甘藷・馬鈴薯・糖蜜などを原料として造り、水で薄めたもの。飲料とし、また、各種の酒類製造の原料に用いる。

ウィスキー=大麦・ライ麦・トウモロコシなどを麦芽で糖化し、酵母を加えて発酵させ、蒸留した酒。オーク樽に貯蔵して熟成する。

狂歌(きょうか);社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)。
 狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
 特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、=石川雅望)らの名もよく知られている。
 狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。現在でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。

 「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
 寛政の改革の際に詠まれたもの。白河は松平定信の領地。定信の厳しい改革より、その前の田沼意次の多少裏のあった政治の方が良かったことを風刺している。大田南畝作という評判もあったが本人は否定した。当時のスポンサーや仲間内が投獄や断罪されたので、一時筆を置き幕臣として力を注ぐ。
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
 黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」とう表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。

大田 南畝(おおた なんぽ);(寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。
右図: 大田南畝肖像画 『近世名家肖像』より
 隅田川に架かる永代橋が落橋し、その場に居合わせた蜀山人は、「永代のかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」という狂歌を詠んだ。落語「永代橋」に詳しい。
 落語「狂歌家主」より孫引き。
 落語「蜀山人」に大田南畝と狂歌の事が
詳しく有ります。

晦日(みそか);月の第30番目の日。転じて、月の末日をいう。尽日(ジンジツ)。つごもり。
金銭の支払いを月の末日にすることを晦日払いと言います。

歌舞伎の『酒井の太鼓』(さかいのたいこ);新歌舞伎十八番の一。時代物。4幕。別名題《世響太鼓功(よにひびくたいこのいさおし)》。通称《酒井の太鼓》。河竹黙阿弥作。1873年3月東京村山座初演。配役は酒井左衛門・鳥井忠広を河原崎権之助(のちの九世市川団十郎)、鳴瀬東蔵を五世尾上菊五郎。《三河後風土記》に材をとる。武田勢にかこまれた浜松城の徳川方が敗色濃くなったとき、城を預かる酒井左衛門忠継がわざと大酔、城門を開き、篝火(かがりび)をたき雲霞のごとき武田勢を眼下にして、臆せず城の櫓の太鼓を打ったので、城門まで押しよせた馬場美濃守は城中に深謀あるを信じて引きあげる。「後風土記」の逸話を脚色したもの。
 徳川家康が生涯最大の敗北を喫した”三方ヶ原の戦い”において、武田軍に追われた家康は浜松城に逃げ込み、城門をすべて開いたままにしました。その後、城内では仲間を鼓舞するために酒井忠次が太鼓を叩き、その音を聞いた武田軍は「これは城に引きいれる罠だ」と思い兵を引き返したと伝えられています。

 月岡芳年画 『酒井忠次時鼓打之図』

喧嘩(けんか);争い。いさかい。
 江戸の名物として、『武士鰹大名小路生鰯、茶店紫火消錦絵、火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞』と言い、
江戸っ子は喧嘩早かった。

小唄や端唄(こうたやはうた);
端唄=端唄とは、江戸初期にあっては長唄との対語であり、元禄年間に刊行された「松の葉」あたりからこの名を確認できる。端唄には二つの意味合いがあり、江戸端唄の前身をさす場合と、短い上方唄(地唄)をさす場合とがある。 江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。 以上の経過から、従前の端唄は上記のどれかに吸収されており、独自の端唄とするに足りる曲は非常に少ない。様々な文献やサイトで、端唄とされるものがうた沢とされていたり小唄とされているのはこのような事情による。 端唄が流行したのは特に天保の改革以後であるとされる。これは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶民が三味線を弾く事を幕府から禁止されてしまった。歌舞伎伴奏などのプロの長唄奏者は営業が続けられたが、街角の稽古場で三味線を教えるようないわゆる「街のお師匠さん」(今で言う個人宅の音楽教室)は禁止されてしまったのである。何年か(10年と言われる)この状態が続いた後ようやく解禁された。そこで庶民らは再び三味線を手にすることが出来るようになったが、長く楽器を触っていなかった者にとっては長唄のような長いレパートリーをすぐにさらい直す事は素人には難しい。そこで覚えたての小曲をすぐに弾くことが出来るという理由で、端唄がもてはやされるようになった。

小唄=もともと端唄から派生した俗謡である。 一般には江戸小唄とされる端唄の略称。略称として定着したのは、明治・大正年間である。 ほかに現代小唄・清元小唄・常磐津小唄・義太夫小唄(豊本節)・新内小唄などがある。 端唄は撥を使うのに対して小唄は爪弾きである。 弾き方は爪弾きと呼ばれているが、正式には爪は糸に当ててはならず、人差指爪先の肉で弾く。 端唄は平坦に歌うのに対し小唄は技巧的に唄う。 しかし小唄の特徴である粋さを出すためにはこの技巧が鼻についてはならない。 演唱の場は主に、お座敷(4畳半)が多かった。 撥を使用すると音色が大き過ぎる為に自然と爪弾きとなった。 三味線は端唄と違い中棹を使用しているが、これは舞台など広い場所での演奏機会が増えるにつれ、 音のより大きい中棹三味線が使われるようになった為である。 使用する糸は端唄より太く、駒は端唄よりも大きな木製(桑、紅木、竹など)の木駒を主に使用するが 象牙で作った3分8厘の駒を使用する事もある。 呟く様に軽妙に粋に唄うのが特徴であったが、演奏場所が広くなるにつれ変化してきている。 演奏時間はおよそ一分半から三分程度。 長くとも五分以内で、詞の内容は遊里物・遊女物(遊里のお色気を扱ったもの)、慕情物・情痴物(市井のお色気を扱ったもの)、芝居物・役者物(芝居や役者を題材にするもの)、バレ唄(諷刺・洒脱のきいたもの)などがある。
 ウイキペディアより

フグは口ッ;この噺「ふぐわ口」の題名はこのオチから来ています。
河豚(ふぐ)=古くはフクと言った。フグ科とその近縁の硬骨魚の総称。多くは体は肥り、背びれは小さく、歯は板状で鋭い。攻撃されると、腹部を膨らますものが多い。肉は淡泊で美味、冬が旬であるが、内臓などには毒を持つものが多い。マフグ・トラフグ・キタマクラ・ハコフグなど。
 「河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別」、
 「河豚は食いたし命は惜しし」
とも言われた。しかし、河豚調理師の国家試験が有るので、素人の調理した物以外では事故は起こらない。フグのちり鍋は、ふぐちりとも言い、フグの中落ちやあらに、豆腐・野菜などを加えて昆布だしで煮、ポン酢醤油をつけて食べる鍋料理。てっちり。この噺の最後に出てくる鍋で、冬の鍋の横綱。

  

 左、トラフグ。歯が4(テトラ)本あり、河豚毒をテトラドキシンと言う。 右、河豚毒を取りに除いた美味フグちり。



                                                            2018年12月記

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