落語「つるつる」の舞台を行く 八代目桂文楽の噺、「つるつる」より
■幇間(ほうかん);別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。
■樋ィさん(ひィさん);文楽は江戸訛りで「しィさん」と言っています。八代目桂文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、この噺や「愛宕山」に登場する旦那は、れっきとした実在の人物でした。樋ィさんの本名は樋口由恵といい、甲府出身の県会議員の伜で、運送業で財をなした人。文楽と知り合ったのは関東大震災の直後。若いころから道楽をし尽くした粋人で、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。この噺、「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時樋口氏が贔屓にしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。
■柳橋の花柳界(やなぎばしのかりゅうかい);安永年間(1772-81)に船宿を中心にして興りました。実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者を加えた結果、最盛期を迎えました。明治初年には、芸者600人を数えたといいますが、
盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。
写真:緑色の「柳橋」。神田川はその向で隅田川に合流します。橋の左側が柳橋(町)。左前のオレンジ色のビルが「亀清楼」、略して亀清。船宿が土手にへばり付いています。最近の船は大型の屋形船だけで、猪牙舟や手こぎ船はありません。
■井戸替え(いどがえ);江戸の井戸は玉川上水や神田上水を市中に引き入れ、その水が地下の樋を伝って井戸に貯められました。決して掘り抜き井戸ではありません。夏季に疫病防ぎのために、長屋総出で井戸底をさらい、清掃します。井戸屋が請け負うこともあり、いずれにしてもふんどし一丁で縄を伝って井戸底に下り、一日がかりの作業でした。
「井戸替え師」三谷一馬画・江戸職人図聚より 『井戸替えは深さを横に見せるなり』
■禁演落語五十三話;戦時中の昭和16年(1941)10月30日、時局柄にふさわしくないと見なされて、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目のこと。戦後の昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からははなし塚まつりも毎年開催されている。
■八厘(8りん);天保銭は1銭に通用していたが、間もなく八厘に貨幣価値が下落した。ここから、足りないものとか、愚かなものを天保銭とか八厘と言った。
■明かり取りの格子;広い家では昼でも部屋が暗いので、天井や窓の近くに三尺(約90cm)四方の穴を開け、そこに取り外し可能な格子をはめ、光を調節した。
■おひつ(御櫃);めしびつ。おはち。炊きあがったご飯を移し入れておく容器のこと。ごはんを美味しくするおひつ。昔、お米は釜で炊きおひつに移していました。炊飯器の登場でその必要はなくなりましたが、長く保温するとご飯が固くなり味が落ちてしまいます。美味しくご飯を保存するおひつに再び注目されています。
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